This is Not here - *//LIKE TEARS IN RAIN

社会での生き方

凡人が万馬券ばかり買って競馬場を去る社会
登山口に辿り着けるかと山を登れるかは別問題
過ぎたる機会は及ばざるがごとしか
これらを読んで、ポール・グレアムのエッセイの翻訳、How to Do What You Loveの中の、

さまざまな制約は、人生に輪郭を与えてくれる。そうした制約を外してしまうと、ほとんどの人は自分が何をしたらいいか全くわからなくなってしまう。
を思い出した。
生きていく何某かのモデルが無いってのは同感。昔はきっと働くということにリアリティがあった。というか、働くということがそんな大層な行為ではなかったんじゃないんだろうか。田舎だと工場(こうば)があって木っ端を拾ってそれで遊んだり、農家でも植木屋でも土方でもいいんだけど、働いている身近な血の通った(って書いた方がわかりやすいかな)大人がいた。でも、現代だと基本的にオフィスの中で大人が何をしているのかわからなくなっているし、コンビニやそういった場所の店員から身近な感じや血の通った感じはしないと思う。風景化しているだろうし(宮台真司だったか)。あと、消費者から生産者側にならないといけない時に、ギャップに驚くというのもあるかも。
ま、難しいことはよくわからないけど、とりあえず、社会の中で生きていくには既に社会にでている、大なり小なりの権力(資本など)を持っている人に”選ばれる”というプロセスを踏まないといけないわけで。就職活動だったら人事だろうし、B2BでもB2Cでも相手(企業、消費者)に選ばれないと社会的に存在ができない。この”選ばれる”というのは、試験の点数などで何かを数値化して”選ばれる”という場合と、そうじゃない数値化できない部分で”選ばれる”という場合あって、この辺が難しいところか。そういえば、「デジタル化や数値化できない能力がこれからの時代は重要になる」って至る所で見たりするけど、そういった世界で人々が幸せに暮らせるかというとそうではないだろうなと思う。日本はそっちに進んでいるんだろうけど。

posted by PFM