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an issue of Saint Laurent by Hedi Slimane 13-14AW Collection

ウィメンズの2013-14年秋冬コレクションまでを見たSaint Laurent by Hedi Slimaneの感想は、tFSでの多くの書き込みやCathy Horynのレビューとだいたい同じといったところです。Saint Laurentというブランド名に変更し、予めエクスキューズを用意しているとは言え、わざわざYves Saint Laurentであのコレクションをやる意味があるかと言えば現時点ではその理由は見つからないでしょう。

実際にブティックで2013年春夏のアイテムをチェックし、1月に行われたメンズの2013-14年秋冬コレクション、そして、今月披露されたウィメンズの2013-14年秋冬コレクションを見ても思いましたが、デザインうんぬん以前にそもそものプロダクト・クオリティが追いついていない印象が強いですね。13-14AWはグランジを根幹においたコレクションですが、質感がハイブランドにしては粗野過ぎるというのがあり、それが理由でメンズはホームレスのティーンエイジャー・ロックンローラー、ウィメンズはLos Angelesの売春婦といったように揶揄されてしまっていますね。

もちろん、プロダクト・クオリティのみがその理由ではありませんが、せめてハイブランドのアイテムとして成立する最低限のクオリティは維持して欲しいかなと思います。エディはあのクオリティで満足しているのだろうか?と思ってしまいますし、今までそれなりに買い物をし、目を養ってきた顧客にとってあのクオリティのものに数千ドルを支払うのは有り得ないのではないかなと。Cathy Horynが"Saint Laurent"というブランドネームしかその価格を正当化しない(中身がブランドネームに伴っていない)という感想を持つのはしょうがないでしょう。
Tim BlanksがShibuya 109やTrash and Vaudevilleを引き合いに出し、Vogue.comではCourtney Loveのコレクションの感想からValue Villageが引き合いに出されていますが、その気持ちはよく理解できます。

13-14AWはもしかするとプロダクト・クオリティが担保されたアイテムが上がってくる可能性も無くはありませんが、どうなのでしょうね。tFSで紹介されていたこちらのムービーで見ると確かに写真よりはコレクションが良く見えます。アイテムのクオリティ問題はアトリエと生産工場のテクニカルな問題になりますが・・、そもそもあのグランジ・アイテムがハイエンドの格式高いブティックに陳列されるというのがそれはそれでとてもシュールな光景ですね。
ちなみに、ムービーの中でショーの感想を求められたCatherine Deneuveは(ショーを見て)ショックを受けているように見えると書かれていたりしますが、どうでしょうか。Pierre Bergeは相変わらず好意的な見方をしていますね。

ちなみに、Saint Laurentの13-14AWと比較されるコレクションとして、Marc Jacobsがその当時、その職を馘首される端緒となったPerry Ellisでのグランジをテーマにした1993年春夏コレクションがあります。当時、Marc Jacobsからそのコレクションを贈られたCourtney LoveとKurt Cobainはコレクションアイテムを自分たちには合わないという理由で捨てて(燃やして)しまったというエピソードなんてのもありましたが、今回のSaint LaurentのコレクションについてCourtney Loveは好みだったようです。

メンズとウィメンズのランウェイショーを見ながら感じたことですが、Dior hommeの頃はモデルがクオリティの高い服を着て少し俯いてさり気無く歩くスタイルで、そこには詩的で寂しげな美しさがあったのですよね。それが、Saint Laurentでは服のクオリティとは対照的に(革新性や新奇性が無いにも関わらず)モデルが自信有り気にで歩くので、それがどうしても寒く見えてしまいます。「グランジ」というファッションに無関心な(ように見える)ティーンのリアルでフラジャイルな内面性を表現するというテーマ性とコンフリクトを起こしてしまっており、チグハグ感がとても強いですね。

ウィメンズの服のデザインに関しては、Suzy Menkesがレビューで書いているようにエディはまだ「一年生」なのでどうしても不慣れな部分があるでしょう。彼がファッション界を離れ、写真を撮っている間にJil Sanderで7年弱もウィメンズのコレクションを積み重ねてきたRaf Simonsとエディを比較する報道が過去にWWDでありましたが、ウィメンズのキャリアが全く違う二人を安易に対比させる図式は明らかに前提が間違っていますね。それはつまり、小学生と中学生を比較するようなものなのですから。

Hedi Slimaneのクリエイションのコアには中性的な少年性(少女性)といったものがあります。青春期のある一瞬にだけ現前するモラトリアム期のナイーブでアンニュイな、少年と少女の、未成年と青年の、危うく美しい変曲点。そのピュアなメンタリティを高い透明度を伴って表現していたのがDior homme時代でしたが、Saint Laurentでは全体的に透明度や艶(色気)が足りないかなと思います。そして、ヨーロピアンエレガンスやシックなムードが描けておらず、アメリカンカジュアルに堕しているのは彼自身の趣味が過ぎますね。彼は好き勝手にやらせると大衆性が無くなり過ぎるタイプだと思うので、リミッターを付けてある制約の中でモノを創らせた方が良い結果が出せそうです。

ただ、ウィメンズの13-14AWコレクションから個人的に感じることは、エディ自身は女性への接し方や描き方があまりよく分かっていないのでは?ということがありますね。ベビードール・ドレスを最初見たときには、中年男性のロリコン趣味的な薄気味悪さを感じてしまい、無理して自分の中には無い可愛らしさを描こうとしなくても良いのに・・と思った次第。彼の青春期への執着が稚拙な「幼さ」として悪い方向で働いてしまっていたと思います。

ウィメンズのファッションでは、女性の気持ちを第一に考え、女性をエスコートするようなコレクションが求められますが、それよりも自分のやりたい事や趣味を優先させるプロダクトアウト的なプレゼンテーション手法は余程でなければ失敗する可能性が高いかなと思います。Christophe DecarninによるBalmainにはEmmanuelle Altがいましたが、エディがこのまま我が道を突き進むつもりならそういう人物がきっと必要でしょうね。

そして、彼自身が女性の魅力についてどれだけ興味があり、今現在、ファッション自体にどれだけ情熱があるのか?というのがクリエイションにおいては一番重要な問題ですね。世の中に対して提示したい思想やアイデアがどれだけあるのか、デザイナーとは自分なりの適切な課題や問題を見つけることができるかどうかがクリエイションのキーになるのですから。今回のコレクションで言えば、今の時代にロックンロールやグランジがどれだけの意味を持つのか?というのがリアリティを伴って表現できていないのはイデオロギーが不足している証左と言えるでしょう。もし仮にアンチ・ブルジョワジーがそれを指すならばあまりにもステレオタイプ過ぎるテーマであり、それに対するソリューションがロックやグランジだというのは安易過ぎますね。
更に敷衍すれば、ランウェイショーの後にエディターの質問を完全にシャットアウトしているのも創り手のアカウンタビリティとしてそれは違うでしょう、と。受け手に想像させる創作手法はポピュラーですが、Karl Lagerfeldであれ、川久保玲であれ、全く説明しないということは有り得ないのですから。

ウィメンズのファッションはメンズよりも制約が少なく、間口が広いですが、確かな鑑識眼を持ったエディターやハイエンドな顧客に対してはビギナーズラックや小手先でどうこうなる問題では無いということが今回のランウェイショーで露呈した訳ですが、エディもできればどこかで過去にウィメンズの経験を少しでも積むことができていれば良かったのですけれど、ね。それには彼は、Dior hommeで成功し過ぎてしまったし、有名になり過ぎてしまったし、偉くなり過ぎてしまったんだな、というのが率直な感想です。そういう意味で言えば、エディは少し可哀想ですね・・。
13-14AWのLFWでランウェイショーに復帰したTom Fordもそうですが、一度ゲームから和了った彼らがワザワザ下界に降りてきたのは、やはりスポットライトの眩しさが忘れられなかったからなのでしょうか。

Suzy Menkesが日本の繊研新聞を引き合いに出して、日本ではSaint Laurentの人気が急上昇中であると書いているのですが、それに対してtFSで"the japanese are known for a consumer culture that verges on the insane."(日本人は狂気的な消費者文化で知られているから。)と嘲笑されてしまっていますね。日本人に西洋文化をベースにしたファッションやクリエイションの本質というものはどうせ理解できないでしょ?と言われてしまえばそれまでではありますが・・。川久保玲や山本耀司以降、本気で世界と勝負できるデザイナーを輩出できていない現実がある以上、そう言われても仕方が無いでしょうか。ファッションに限らず、ある文化とは創り手と消費者が一体となって文化体系を形成するので、そこにコミットする人たちのレベル以上には文化水準は成長しないのですよね。

エディターやジャーナリスト的な目線で少し言えば、好きだけれど評価してはいけないコレクションと嫌いだけれど評価すべきコレクションが世の中には存在するでしょう。人間なので感情は大切ですが、感情だけで物事を推し量るのはプロフェッショナルでもインテリジェンスな行為でもありません。まして広告費やランウェイショーのインヴィテーション目当ての拝金主義的な振る舞いは誰からも尊敬も信頼もされないですね。Suzy MenkesやCathy Horynといった海外の書き手が多くのFashion Loversから愛されているのは、社会的な公共性や業界全体の利益を考慮し、言うべき時に言うべきことを言うからなのですから。
翻って、日本のエディターやジャーナリストがどういう状況にあるのかは寡聞にして知りませんが、日本のファッションの文化レベルを押し上げたいと本気で願うのならば、それ相応の規範となるような振る舞いが求められるのは言うまでもありませんね。

話を元に戻して最後にしたいと思いますが、誰もがその存在を忘れつつある埃を被ったブランドならいざ知らず、Yves Saint Laurentという世界的に有名なブランドを引き継ぐ場合には、やはり創設者の美学を尊重すべきでしたね。いきなりすべてを変えるのではなく、白から黒へのグラデーションのように緩やかに物事を変えていくべきだったかと。パリコレクションという場では、逐次的改善の持続的イノベーションではなく、破壊的イノベーションのエポックを皆は期待していますが、今回のエディのやり方はイノベーションというポジティブな言葉とは真逆の方向でしかないのが残念です。
彼がファッション界に復帰するというニュースが流れた時が一番期待値が高く、その後のAD Campaign等の写真も含めて、全てが予測され得る範囲内で今現在まで推移してきているのでこの状況に個人的にはあまり驚かなかったりもしますが。一度、自分の型が出来上がってしまった創り手が、その殻を破って新しいものを創り出すのはそう簡単にはいかないですから、ね。

ピンチをチャンスに変えるという意味でこの状況から彼が多くのことを学び、また、素敵なコレクションを見せてくれると良いのですけれど、今後はどうなるのでしょうか。いつまでKERING(元PPR)が彼をYves Saint Laurentのクリエイティブ・ディレクターとして採用し続けるのかが気掛かりですが、次の2014年春夏コレクションの成否が一つの分水嶺になるのかもしれませんね。

posted by PFM