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Tom Ford talks about runway show, movie...

TIMEでのTom Fordのインタビューですが、ランウェイショーの開催時期変更や彼の第2作目となる映画"Nocturnal Animals"などについて話していますね。
映画を撮ることとファッション・デザイナーの仕事は彼にとってどちらも同じプロセスであり、ヴィジョンが必要であると語っています。そして、映画は神のように世界をデザインすることであって、究極のデザインプロジェクトとのこと。コントロールフリークな彼らしい考えですね。

(ランウェイショーの開催時期変更に関して、)ラグジュアリーとエクスクルーシヴィティとは販売されている製品のクオリティとサービスについてであると彼は説明しており、そして、即座に得られる満足(インスタント・グラティフィケーション)がラグジュアリー・エクスペリエンスにもなったとのこと。現代において最高のラグジュアリーとは全く待つ必要がないということにあり、人々が何かを手に入れるのを楽しみにして待ちたいと思うことはロマンチックな概念であって、本当はもう誰も何かを待ちたくないのではないかと語っています。

何かが届くのを楽しみに待つというのは確かにロマンチックで、ある意味で前時代的な感じがするというのは理解できます。手紙とメールの違いみたいなものでしょうか。何かが届くまでアレコレ考えるのも楽しいと言えば楽しいのですが、時間というものが現代においてはとても貴重な資源になっており、スピードが求められるというのも事実。この辺はもう消費者一人一人のライフスタイルというか、ファッションの楽しみ方次第といったところだと思いますけれどね。

Fashion Show are shifting for Consumer...?

Burberryがウィメンズとメンズのランウェイショーを統合し、シーズン直前の2月と9月にウィメンズ/メンズ混成のコレクションを発表するという話が話題になっていましたが、デジタルメディアをいち早く活用してきた同社ならではの決定と言ったところでしょうか。コレクションも春夏や秋冬といった括りではなく、全世界のコンシューマーへ向けたシーズンレス・コレクションとなるようですね。BoFでのChristopher Baileyのインタビューによれば、この決定はデザインやクリエイティヴ・プロセスには思ったほど影響はないとのことで、問題はサプライチェーンにあると彼は話しています。

メリットとしては、ランウェイショーの瞬発的な一回性によるエネルギーをビジネスに接続できるということ、ショーからデリバリーまでのリードタイムをほぼゼロにすることでファストファッションによるコピーをある程度防げる、等が挙げられるでしょうか。tFSでもいろいろ意見が書かれていますが、ランウェイショーを起点に、レッドカーペット(セレブリティの着用)、アド・キャンペーン、雑誌のエディトリアルといった流れが現状にはありますが、これらも変化を迫られることになりますね。

ウィメンズとメンズのコレクションを統合するというアイデアは、通常はウィメンズとメンズのデザイナーが同じである必要があり(故に、どのブランドでも採用できる戦略では無い。)、また、どちらもコレクションのテーマが似通っているか、描かれる女性像/男性像に調和が取れている必要があります。したがって、ウィメンズとメンズのショーを統合するとクリエイションには少なからず制約が出るでしょう。
BurberryはProrsum、London、Britのラインを統合しましたが、(現状でも既にショーはウィメンズ/メンズ混成となっていますが)ウィメンズとメンズのショーを完全に統合するとクリエイション的には八方美人な感じになりそうな気もします。いずれにしてもある種の先鋭性は削がれていく方向にあると思いますが、その点で言えばラインの統合の方が影響は大きいような気がしますね。ウィメンズとメンズでどちらが犠牲になるのかと言えば、もちろんメンズなのでしょうけれど。ちなみに、Burberryは年2回のメンズのロンドン・コレクションではショーは行いませんが、イベントへの参加は続けるようです。大きいブランドがファッション・ウィークに参加しなくなると各国のエディターやバイヤーらを集客できなくなるため、ロンドン・コレクションで発表している小さいブランドや若手ブランドの成長に影響が出るという懸念がありますね。

あくまでも業界人向けに行われていたランウェイショーをシーズン直前に消費者向けに行うということであれば、今まで以上にファッションの民主化が進むということを意味します。過去にBurberryは顧客を招待してショーのパブリックビューイング的なことをやっていましたが、ランウェイショーを見て、早ければ次の日にはブティックで手にすることができるということになれば、アーティストのライヴやスポーツ観戦でグッズを買うような感覚にファッションも近くなっていく気がしますね。消費者に考える暇を与えずに衝動買いを推奨するという指摘は、ビジネス的にはそこが狙いなのでしょう。
民主化を大衆化やポピュリズムと言い換えれば、そこでは刹那的な話題性だけが問われ、ショーはより派手にエンタメとなり、モードはよりカジュアルに、テーマはより解り易いものに堕していく可能性もある訳で、そこが問題と言えるでしょうか。もちろん、そのブランドが目指すところがそこにあるのならば特に問題は無いと思うのですが、個人的な興味・関心からは外れた世界になりますね。

ショーの開催時期の変更は既存のファッション・エコシステムに多大な影響を及ぼすことが予想されますが、ショーの開催時期よりも重要なものはショーの中身なのであって、そういう意味で言えば全てはクリエイティヴィティに帰結するのかなと思います。Tom Ford、Tommy Hilfiger、Vetementsといったブランドがショーを行う時期の変更を既に表明しており、このままこの流れが加速し、ファッション・ウィーク自体の開催時期の変更までなされるのかが気になるところですが、いずれにしても重要なのはそこで提示される服にどれだけ力があるのか?ということに変わりは無いのでしょうね。

Christian Dior 16SS Haute Couture Collection

Raf Simonsがアーティスティック・ディレクターを辞任してから初となったChristian Dior 2016年春夏オートクチュールコレクション。スタジオ・ディレクターのSerge RuffieuxとLucie Meierが中心となって制作されたコレクションのタイトルは、"Couture's new realism"。

16年プレフォールもそうでしたが、基本的にラフがDiorに築いたミニマリズムを踏襲してのコレクションとなりましたね。John Gallianoが馘首された後、Bill Gayttenがガリアーノの方向性を踏襲してコレクションを行っていたのが思い出されます。ガリアーノの豪華絢爛な方向性を踏襲したBill Gayttenのコレクションは情報量が多く、ある意味でクオリティを誤魔化せていた部分があったと感じるのですが、ラフのミニマリズムを踏襲したコレクションではボリューム等での誤魔化しが効かないため、そのままストレートに創り手の力量が出てしまいますね。今回のコレクションのアイデアの一つにネックラインで遊ぶというのがありましたが、全体的にアンバランスで収まりが悪く、機能しているとは言い難かったと思います。

プレフォールも今回のクチュールも個人的な印象は切れ味がとても鈍いということに尽きます。そして、全体は偏りが少なく、平均的ではありますが、それであるが故にクリエイティビティやディレクションが欠けている印象を与えますね。淡い抽象絵画のようなぼやけた輪郭は、服も描かれる女性像もどこか没個性的でアノニマスな香りを帯びてしまいます。

正式なデザイナーが決まるまでの過渡期においては、今までの文脈から外れた個性的なコレクションを発表することができないという縛りもあるのでしょう。ただ、前述のようにラフが遺したミニマリズムをベースとしたリアリティに軸足を置いたクリエイション領域においてクオリティを出すためには、かなりの技術とセンスや経験が必要であることが分かります。今後、2人のヘッド・デザイナーとアトリエの職人たちの呼吸がもっと合うようになればクオリティは上がって行くとは思いますが、このままの方向性で続けるのか、それとも少しずつ変化を付けていくのか、にもよるのかなと思います。

John Gallianoの壮大な世界観から、Raf Simonsのモダンなミニマリズムへの転回。そして、その先を描くことになるデザイナーは余程の強度ある美学を持っていなければならないということを考えさせられたコレクションだったでしょうか。

via dior.com vogue.com wwd.com