This is Not here - *//LIKE TEARS IN RAIN

Technology, Technique and Vision

写真は現実と想像力が交差する表現であって、つくり手や受け手の想像力や願望が多かれ少なかれ流れ込むことになる。つくり手は世界の小片を収集し、不完全な現実の裏返しとして純化されたイメージをつくり、何かがそこにあるかのように神秘性を付与する。受け手は、そこにつくり手や自身の想像力や願望を見ることになる。

写真を撮っていると普段から空や光にばかり目がいくようになり、建築物やオブジェクトの質感、植物等についても自然と気になるようになる。デザインに興味を持つと世の中のいろいろなモノのレイアウトやフォント、カラーパレット等が気になりだし、ファッションに興味を持つと人々のコーデや映画の中の衣装等が気になりだすように。それまでのモノの見方は変わり、分解能が上がって、世界との対話の仕方が変わっていく。成長とは、ある経験や知見を得たことによって自身の認識や行動が変わり、世界との対話の仕方が変わることを指す。

写真や映像、デザイン、ファッションなど、優れた創作物は既存の価値観を更新し、世の中のルールを上書きしていくものであり、人々の世界との対話の仕方を変える。そこではミームへの感染が起きる。

写真を撮って加工してネットにアップするという行為のハードルが下がり、SNSによって写真が完全にコモディティ化して久しい。2017年に全世界で撮られた写真の総枚数は1兆2000億枚とも言われており、その8割以上がスマホからとなっている。スマホ写真の品質はずいぶん前に閾値を超えており、記録やコミュニケーションのトピック、または、フォロワーを増やすためのツールとして写真を利用する大多数のユーザーにとって十分な品質である。
撮られた写真が何度見返され、思いを馳せる対象になるのかは不明であるが、総数が増えれば増えるほど希釈され、その回数は逓減していくだろうか。

SNS上で流通し易い写真はそのアーキテクチャ上、一発芸的な写真になる傾向が強い。多種多様なコミュニケーションストリームの中でネオン看板のように分かりやすく人の目を惹く必要があるので、自然とそちら側に傾倒していったと推測ができる。ただ、街中のネオン看板がコモディティ化しているように、そういった写真もコモディティ化している。

高彩度/高コントラストに現像された写真、ハイ/ローキーな写真、iPhone/インスタント写真越しに撮られた写真、有名撮影スポットや古都(異国情緒)で撮られた写真、水面反射(リフレクション)、一色残し、タイムラプス、チルトシフト、多重露光、長秒露光、逆光ポートレート、比較明合成、HDR、ドローン空撮、オールドレンズ・レンズフレア等、もっと書き出せば他にもあるだろうが、これらの写真や手法はありふれており、飽和している。

写真に限らず、クリエイションにおいて問題となるのは、表現の手段として技術が使われているか否かになる。技術オリエンテッドや被写体(素材)にフリーライドしただけの表現はストーリー性も低く、同じようなものの焼き直しになり、飽きられ易い。SNSに関して言えば、アカウント・アイデンティティの問題もあり、アカウント・アイデンティティの確立とその同一性という面で同じような投稿をし続けなければならないという圧力が働くということもこの問題に拍車をかける。無論、RTやLikeを集めた投稿がその後のそのアカウントの方向性を決めることは想像に難くない。

一般的に、機材や表現技法、カラールックアップテーブル等は表現したい何かから導かれて選択されるべきである。技術ありきの表現は、作例やカタログ的な何かに留まる可能性が高く、"So what?"を超えられない場合が大半である。重要なことは技術と対を成すサブジェクトやアイデアであり、世に何を問い、歌うかである。

ハードウェアの日々の進歩がつくり手に自由を与え、表面的なルックがプリセットやLUTという形で数値に還元され、頒布される世界。
技術(Technology and Technique)の研鑽が大切であることに異論はないが、多くの場合に欠けているのはヴィジョンであると言えるだろうか。

posted by PFM