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Brand meets New Designer's Identity

2019年1月に行われる予定の2019-20年秋冬シーズンのメンズランウェイショー。そのプロローグとなったKris Van AsscheによるBerluti 2019年春夏カプセルコレクション

1895年、ブランドのファウンダーであるイタリア人のAlessandro Berlutiが考案したレースアップシューズ。彼の名を冠した伝統的なアレッサンドロ・オックスフォードや1962年にAndy WarholがBerlutiに注文した一足のローファーを端緒とするアンディ・ローファーは、厚底のクリーパーソールによってカジュアルに再解釈され、ブランド・シグネチャーとなる18世紀の手書きの手稿をモチーフとした"Scritto"は、ウェアやボディバッグの上にグラフィック・プリントとして現代的に採用されている。

1980年代にメンズレザーシューズの世界に多様な色を齎したOlga Berlutiによって生み出された"Patina"。今回のカプセルコレクションにおいてメンズウェアとしての伝統的な重みとストリートの快活さを両立させた深い色味の赤・青・黒のグラデーション・カラーパレットは、このパティーヌからインスピレーションを受けたもの。
ジャケットにパンツ、そして、ビジネスからウィークエンドまでのバッグたち。多くのLookに散りばめられたレザーは、シューズブランドとして創業されたBerlutiへの賛歌と言えるだろうか。

Kris Van Asscheのシグネチャーであるシワ一つないポリッシュなテーラリングは相変わらずクリーンで美しく、オールドでクラシックな方向性ではなく、Dior homme時代と等しくアーバン・スポーティにデザインされている。M/M(paris)によってリデザインされた丸みを帯びたタイポグラフィを採用した新しいブランドロゴは、クリスのミニマルでコンパクトなデザインテイストに良く合い、どこか可愛らしさと愛嬌のある表情をしているように見える。

今回、Haider Ackermannの後任となったKris Van Asscheであるが、ほとんどのアイテムはDior homme時代のクリエイションの延長線上に存在する。カプセルコレクションということもあってか、安全圏内で小気味良くシンプルにまとめられたコレクションである。

Berlutiがシューズブランドを出自とし、前任のHaider Ackermannも僅か3シーズンで交代となり、Berlutiがウェアにおいて相対的に強いアイデンティティを持たないブランドであることはクリスにとってポジティヴに働いていると言えるだろうか。シューズを中心にブランドのヘリテージに敬意を表しつつ、ウェアにおいては自分の作風をそのまま活かすことができる。

ただし、ブランドが持つアイデンティティやヘリテージ(ChanelにおけるツイードジャケットやChristian Diorにおけるバージャケット、Maison Margielaにおけるデコンストラクション、等。)は、デザイナーのクリエイションの方向性や力量によって制約にもガイド(指針)にもなり得ることに注意が必要である。制約が新しいクリエイションを誘発するように、自由であればあるほど良いという訳ではない。

彼の作風はDior homme時代に紆余曲折を経て確立されたが、多くの創り手がそうであるように作風が固まったあとはそこからどうやって変化を付けていくかが問題となる。クリスのデザインはリアリティ側に軸足を置いたオーセンティックなデザインをベースとしており、ウィメンズよりもセンシティヴで制約の多いメンズウェアの世界の中でも変化を出しにくい領域をメインフィールドとしている。そういった状況下において、ブランド・ヘリテージの泉から水を汲み出しつつ、時代の空気を捉え、自分のクリエイションをどのように変化させていけるのかが今後の課題となるだろう。

成功しているブランドや強いアイデンティティを持った歴史あるブランドのデザイナーを務めるということは、一般的にそれら過去の要素を取り入れてデザインを行うことがビジネス的にも顧客からも求められる。
Karl LagerfeldやRaf Simonsといったように器用にブランドに合わせて自身のアイデンティティとブランドの遺産を上手くマッチさせることができるデザイナーも入れば、Hedi Slimaneのようなデザイナーもいる。

そういう意味で言えば、Hedi SlimaneはSaint LaurentやCelineではなく、ウェアに強いアイデンティティを持たないブランドの方がマッチする気がするが、それでもクリエイションにおいて新しいことへの挑戦をせず、同じようなコレクションを繰り返すのであれば、やはり自身のブランドを立ち上げて一部の顧客だけを相手にするべきと言えるだろうか。それをしないということは、表向きにはもっともらしい理由を付けているにしても自分のクリエイションが再生産で長く続かないということを自覚しているからということになるだろう。一発芸で売れた芸人がいつまでも同じ芸を繰り返しているようで痛々しさを感じるのだが。

インタヴューにおいてエディは、「Celineにおいて、過去(歴史)の重さはDiorやSaint Laurentのように強くありません。我々はより簡単に過去から自由になることができる。」と話しているが、Christian DiorやYves Saint Laurentと比較すれば世の中の多くのブランドの歴史は軽いものになるでしょう。あくまでも自身が在籍していたDiorやSaint Laurentを例として挙げたのだと推察されるが、確かにCelineにはブランドを代表するような歴史ある遺産がほぼ存在しない。ただし、前任者のPhoebe Philoのデザインはそんな簡単に捨て去るべきデザインであったのか?ということはかなり疑問である。もしそのように彼が彼女の業績を評価しているのならば、あまりにも彼女を過小評価していることに他ならない。彼女が行ったことは、女性の女性による女性のためのファッションであり、ビジネス的にも利益をCelineに就任した2008年の2億ユーロから2017年には10億ユーロ程度にまで引き上げている。

そもそも、Phoebe PhiloのヴィジョンをHedi Slimaneがほんの僅かでも引き継ぐことができるかと言えば、インテリジェンスやエレガンスを描くことができない現時点の彼には不可能であり、「前任者の仕事を模倣するためにファッションハウスに入ることはない。」というインタヴュー内でのエディの発言は残念ながら自己正当化のためのエクスキューズの域を出ない。もちろん、彼女と彼のクリエイションスタイルが全く異なるということを考慮しても、である。

ビジネス側の人間もブランドの歴史や前任者のヴィジョンをもう少し考慮し、ブランドの連続性を勘案したデザイナーの人事を行う必要があるのではないだろうか。2015年頃からDemna GvasaliaとAlessandro Micheleを擁するKeringのゲリラ戦のような台頭(Hedi SlimaneによるSaint Laurentはこれらに先んじたもの。)によってハイファッションの世界は話題性重視のキッチュさが優先され、LVMHを始めとしたエレガンス領域を脅かすという構図がある。それらに対抗するため、LVMHはCelineにブランドの連続性を完全に無視したHedi Slimaneを配したのだと個人的には理解している。Dior hommeを廃して、分かり易いコラボが冴えるKim JonesによるDior Menが開始されたのも同じ文脈に位置付けることができるのかもしれない。

Keringよりも相対的にLVMHは売り上げという数字だけを追うのではなく、アーティスティック・ディレクターの意向やクリエイションに理解があり、ブランドの歴史や既存顧客を尊重できるのではないかと思っていたが、残念ながらそうではなかったようである。一般的に話題性重視のコレクションやアイテムは一過性で賞味期限が短く、中長期的に見ればそのブランドの遺産にはなりづらい。ブランドを育てるということは、その時代のデザイナーが腐心し、それが連なることで少しずつクリエイションの結晶がブランドに堆積していくことを意味する。短期利益を優先し、目先の数字だけを追いかける経営手法はブランドもデザイナーも、そして、顧客をも使い捨てにする焼き畑である。

話題のアイテムのみを求める顧客はテンポラリーな顧客であり、SNSに投稿することにしか興味が無かったりするため、そのブランドの服を長く愛したり、ロイヤルカスタマーになる可能性は低いと言える。
ある程度の成功を収めていたブランドにおいてデザイナーの交代による大幅なデザインテイストの変更によって切り捨てられたロイヤルカスタマーは、(少し大げさに書くが)同じ企業が経営するブランドを避けるようになる可能性もあるだろうか。ブランドがある程度成功していたとしても、気まぐれな経営方針の変更によってまたいつ自分たちが切り捨てられることになるか分からないのだから。そうこうしているうちに、ハイファッション自体に興味を失ってしまう顧客もいるのではないだろうか。もしそうだとすれば、焼畑経営は業界にとっても悪影響がある行為だと言える。

翻って、ブランドの歴史やデザイナーのヴィジョン、クラフトマンシップといったよく分からないものに顧客は全く興味がないという考え方もある。それらはビジネス側の人間がつくり出した耳当たりの良いマーケティングのための美辞麗句であり、そんなことを気にしているのはこの文章を書いている私と同意しながら読んでいる奇特なあなただけ、ということだ。
おそらく世の中の大半の消費者がそうであろうことに同意せざるを得ないが、そういったものを欠いてしまったファッションというものはただの集金装置であって、あまりにも軽薄なものになってしまわないだろうか。少なくとも自分が好きなファッションとは、そういうものではなかったはずなのだが。

via forbes.com vogue.com

posted by PFM