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Once Upon a Time in Fashion

コレクションブランドにおけるランウェイショーのライヴストリーミングはゼロ年代後半から始まり、ちょうど10年程度の時間が経過している。
ハイファッションのデジタル化は、業界人のためだけだったランウェイショーをAppleがiPhoneを発表するかのようにカスタマーへのプレゼンテーションにスライドさせ、そこからECサイトに接続することで"See now, Buy now"のライヴコマースとして結実する。

そしてその流れは、更にチケット販売形式のパブリックショーへと進行する。ショーピースは、さながらアーティストのライヴグッズのようであり、ショー自体もライヴオークションやTVショッピングの実演販売のような様相を呈す可能性を帯びる。エクスクルーシヴなランウェイショーの神秘性は失われ、コマーシャライズによって換金されていく危険性を孕む。

ゼロ年代はハイブランドのデザイナーがファストファッションとコラボレーションを行った時代でもあり、デジタライゼーションと同時にハイファッションにデモクラタイゼーションを促す。オフィシャルサイトや影響力を持つデジタルメディア、ファッションブロガーや黎明期であったSNSを通じて情報が流通する。よりハイファッションが身近になり、著名デザイナーとファストファッションとのコラボレーションアイテムは、その世界に接することができたかのような幻想を多くの消費者に与え、未来の顧客を胚胎する。

ブランドの成長を託された才能あるデザイナーによってデザインはストリートカルチャーをインスピレーションソースとして取り込むことで、よりカジュアルでリアリティのあるウェアラブルな方向へと傾斜していく。ストリートというフロンティアをエンジンに、クリエイションとビジネスが回り始める。デフィレでは目を惹きつつも日常使いできるような、そんな矛盾したアイテムを顧客は求め、経営陣も話題性を集め、定番となるようなアイテムでビジネスとしての結果を求める。
遠い世界にしか存在しなかったハイファッションが少し手を伸ばせば手が届く地続きの場所にあり、彼/彼女らの日常に非日常として光を射す。

20世紀半ばを起点とするオートクチュールからプレタポルテへという転換。厳格な規範からの自由と解放を求めた既存のコードの書き換えと改変。記号と意味の操作による新しい概念の創出と時代の創造。限られた顧客のためだけでなく、より多くの開かれた顧客のために、大義の名の下のビジネスの正当化と拡大。フォーマルからカジュアルへ、秩序から無秩序へ、大局的な軟化の流れに沿うデモクラタイゼーションは、そのビジネスの帰結として、いつしかポピュリズムへと変質しつつある。ここ数年の緊張から弛緩へのシルエットの変化は、この流れに沿う。

一方、デジタライゼーションが齎したもう一つのものとして身体性の縮減がある。デジタル化によるコミュニケーションの間接化と非同期化。テクノロジーの進歩による人間の活動自体が効率化・省力化されていく流れは身体性の縮減を促す。身体性の喪失は、身体に纏う服の重要性を必然的に縮減させる。ファッションがローカルなアバターであり、スキンであった時代から、オンラインでのSNSがそれらを代替する。オフラインとオンラインではリーチする数もリアクションを得る速度も全く異なるため、即物的なオンラインが必然的に選択される。

そういった身体性の縮減に対するバックラッシュとしてヨガや筋トレ、ダイエット、または、タトゥーのように身体性を伴ったものが散発的に社会に発露される。アスレジャーのようなものも同様の文脈で捉えると理解がし易い。いずれも身体性の再発見がキーワードとなる。

ライヴストリーミングから始まり、デジタライズとデモクラタイズに引き付けて簡単に概括すれば以上のようになるだろうか。もちろん、ある主観的な断面に過ぎないが。権威や神秘性を保ちつつ、クリエイションはデジタライゼーションやデモクラタイゼーションと上手く付き合い、持続可能なビジネスを回していくということが基本になると言えるでしょうか。

posted by PFM