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日本資本主義の精神

山本七平の著書は突然昔の古い文書の引用や、聖書関係の話が出てくるので読みにくい部分がある。そんなに多く読んだわけじゃないけど。日本語は時代と共に変化しすぎて、過去の文書の蓄積が知識や情報として次の世代にあまり相続できていないんじゃないかと感じる。
それで、この本の内容は、機能集団であるはずの会社が共同体として作用すること、日本人の経済行為は一種の禅的な修行であること、「資本の論理」とその上に樹立される「資本の倫理」の話、などが書かれていた。共同体の部分は、ソニー本社六階(竹内慎司)という本を少し前に読んでいたので、日本は何も変わっていないんだなと読みながら思った。以下、気になった部分を引用する。

「明君」といわれた人の統治方法を見ると、一方では「資本の論理」どおりに行ないながら、自らは質素倹約、同時に大いに武芸も奨励して、それに参与できない人間にも存在理由を認めて、心理的満足をもたせるという方法をとっている。

人の上に立つ者としての心構えというか、人心把握術みたいなものでしょうか。存在理由による心理的満足。そのコミュニティに属しているという一体感。それが強固な結束も生むし、腐敗も生む。

どうすべきかは、後になって見れば、明らかである。だが世の中のことはすべて、「後になって見れば」そうなのが当然であっても、その渦中にある者にはこの「当然」が見えなくて不思議ではない。「事実」は人を動かさないが、「虚構」は人を動かすからである。

ある状態に置かれた者がどういった選択肢を取れば良いのかについて。「事実」は人を動かさないが、「虚構」は人を動かすからである。という部分が面白い。確かにそうだ。
大切なのは、冷静に客観的な現実を把握すること。そして、それに即して行動するということ。それがどれだけ難しいことか…。基本的にあらゆるものは事後的にしかわからない。時計の針は時を事後的に記述している。時間の流れの痕跡を、事後的に視覚化しているだけ…。
最後にトヨタのかんばん方式を引いて、「働く」と「動く」の違いについて。「ニンベンの有無」だけれど、大きく違う。生産性や経済合理性という部分を無視して、「ひたすらやった(動いた)」ことに宗教的意義を感じ、満足してしまう日本人。「動く」ことで現実から目をそらし、精神的充足を得る。そして、それが仕事として評価されないと不満を言う。という話。グラフィックやイラストでも、無駄に情報量を上げたり、描きこんだりしてもダメって話に似ている(このエントリーを書きながら思った)。
働いている人と動いている人の違いを見分けるのは極めて難しい。なぜなら、ある時は働いているけれどある時は動いているという風に人間は常に揺れているから。そこでトヨタは仕事をモジュール化して単純労働化し、誰でもできる仕事にすることで、常に全員が働いている状態にする。そして収益を上げている、、のか。きっとそうだ。働いている人が働いていない人に対して働けと言うと、その言われた人は働かずに「動く」だろう。そして、逆に仕事が増えていく。そう考えると、単純労働の仕事でないのなら働く人も働かない人もいた方が良い。共同体の中にある程度の多様性が確保されていた方が、マクロで見れば最適化されていそうだ。パレートの法則か。しかし、ここで問題にしたいのは、動いていないと不安になる精神構造の方なんだが…。ま、長くなったのでこの辺で。知識労働者の生産性に関しては、P.F.ドラッカーあたりか。

纏まらない文章がデフォルトになって来たけど、思考実験としての読書は面白いってことで。おしまい。

posted by PFM