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2013/2012 CFDA Fashion Awards Journal

写真は、Peter Lindberghによる2013 CFDA Fashion Awards Journalから。
こちらのBehind the Scenesの映像がアップされていたのでご紹介。

CFDA Fashion Awards Journalのポートレイトはクオリティが高くてとても好きです。2011年のInez van Lamsweerde and Vinoodh Matadin、2012年のCraig McDean、そして、今年のPeter Lindbergh。アート・ディレクションは、一貫してLaird and Partnersによるものですね。

折角なので、昨年のCraig McDeanのものもBehind the Scenesから抜粋してアップしておきます。


Lanvin "THE SNATCHERS" - Jewellery designed by Elie Top

Lanvinのジュエリー・デザイナーであるElie TopのエキシビジョンがMuseum des Arts Decoratifs of Parisで行われているようですね。Jeanne Lanvinが使用していたアパートの再現がパリ装飾芸術美術館にはあり、そこで展示がされているようです。テーマは「宝石泥棒」ということで、ディスクリプションにもあるように博物館に対してアイロニックなテーマとなっています(笑)。

Elie TopとAlber ElbazはYSL Rive Gauche時代(1997、8年頃)からの付き合いとなりますね。Elie Topのインタビューがここここにあるので興味がある人は読んでみると良いかなと思います。毎回、Lanvinのランウェイショーでもジュエリーはかなり存在感を示しており、Lanvinのドレスには欠かせないアイテムとなっていますね。

2001年にAlber ElbazがLanvinのクリエイティブ・ディレクターに就任した際にElie Topに電話をしたのですが、Chanelは別としてジュエリーが存在感を示せているコレクションブランドは無かったのだとElie Topはインタビューの中で話していますね。つまり、ChanelのようにLanvinもジュエリーがコレクションの中で存在感を示せるブランドにする、という意図がエルバスにはあったようです。
ジュエリーとドレスが共鳴し、互いに美しさを引き出せる関係性にある現在のLanvinの姿は、エルバスが描いた青写真通りになっていると言えるでしょうか。

Lanvin 14SS Collection Backstage Photography.
via lanvin.com

Tending the Garden of Comme des Garcons... Burberry's Big News... Kris Van Assche...

Adrian Joffe, Tending the Garden of Comme des Garcons
Comme des Garcons Internationalのプレジデントを務めるAdrian Joffeの記事。現在のComme des Garcons社は、年間の売り上げが2億2000万ドルで、800人以上を雇用しているのですね。
記事の中で目に留まったのは、香水のComme des Garcons ParfumsはPuigへの(部分的な)ライセンスで、それ以外がComme des Garcons parfums PARFUMSというようにブランドを分けているという話、Playはビジネス的な決定ではじまったもので現在は総収益の12パーセントに達しているという話、そして、川久保玲の後継者の話まで彼の口から言及されているのは興味深いですね。

Making Sense of Burberry's Big News
各所で話題になっていたAngela AhrendtsのAppleへの移籍とChristopher BaileyのCEO就任のお話。Giorgio ArmaniやTom FordのようなプライベートカンパニーではないBurberryで一人二役は難しいのでは?という指摘は同意ですね。

Homme is where the heart is: Kris Van Assche's tailoring has transformed Dior's menswear
Dior hommeのKris Van Asscheに関する記事。ブランドの歴史に関する部分ではHedi Slimaneに関する記述もいくつかあります。尚、クリスへのインタビューの際はエディに関する質問はNGだったようです・・笑。
クリスへのインタビューの内容はほぼ既知の情報ですね。エディ時代よりもジャケットを快適にしたという話や、2013-14年秋冬の"Gattaca"コレクションについての話、男性には腕時計や車、そして、ジャケットの構造のように技術的に説明可能なもの(技術的な薀蓄)がより訴えかけるという話など。
記事中でも触れられていますが、何だかんだでクリスはエディよりもDior hommeでの在任期間が長くなりそうな感じですね。クリスの後任については今のところ全く想像ができませんし。

Raf Simons: Artistic Director for the house of Christian Dior

写真は、Raf Simonsと彼の両親。Christian Diorでのデビューコレクションとなった2012年7月に行われた2012-13年秋冬オートクチュールコレクションでの一幕のようですね。

ベルギーのLimburgにあるNeerpeltという小さな町で、軍で働く父(Jacques Simons)と掃除婦の母(Alda Beckers)の間に生まれたRaf Simons。彼は母国語としてFlemishを話す。一人っ子として生まれ育ったが、小さい頃は兄弟が欲しかったのだとか。兄弟の代わりに彼はマーモット(リス科)を飼っていたという。
ラフによればNeerpeltは文化と呼ばれるものからは完全に隔絶された牛や羊の農場がある小さな田舎町であり、周囲にあるものが自分の興味とは正反対であったため、テレビばかり見て育ったとのこと。その結果、MTVと音楽が彼に大きな影響を及ぼすことになる。何も無い町に生まれ育った彼にとって音楽が現実から逃避することができる「唯一の脱出」であり、地元のレコード店でそれを買うことができたのだという(彼が一番最初に買ったLPは、Bob Marley)。厳格なカトリック・スクールに通いながらThe Virgin Prunes、The Cramps、Joy DivisionやNew Orderといった"New Wave"へ傾倒し、初期のManicsやSuedeにSmashing Pumpkins、そして、Sonic YouthやKraftwerkといったアーティストたちのギグにも彼は足を運ぶ。

彼の音楽体験には1980年代のベルギーで起こった"New Beat"も一役買っている。人里離れたディスコに3000から4000人の若者が集まり、セルフメイドやセカンドハンド、Jean Paul Gaultierのようなハイファッションに関わらずそこには多くのファッションがあったのだとか。音楽とダンス、多くのレーザーとドラッグがあったと彼は回想する。
しかし、"New Beat"の問題点はそれがメインストリームになってしまったことにあると彼は指摘する。テレビのニュースに登場するようになり、より多くの人々がそれを知り、急速に商業化が行われ、最終的にそのアンダーグラウンド・ムーヴメントは彼らに殺されることになる。よって、ラフが18、19才の頃に"New Beat"は興隆するが、彼が自身のブランドを開始する90年代中頃には完全に終わってしまっていたのだとか。

また、音楽体験と同時にベルギー国内のアート事情も思春期の彼に影響を与えており、1986年に行われたキュレーターのJan Hoetによる"Chambres d'amis"という展覧会(アート作品を個人の住宅内に展示するという趣向のもの)については、毎日テレビで情報を追いかけ、実際にそれが行われているGhentへ旅行をしたことがあるという。

ラフは自分の両親のことをとても尊い存在であると言い、両親は自分のことを育てる時には決して「こうしなければならない。」といった何かを強制させるような教育はしなかったと回想する。両親が彼に唯一言ったことは、「自分が信じることを真剣にやりなさい。」ということだったという。
ベルギーはAntwerp Sixが現れるまでファッションに関するものは何も無く、ベルギーにはチョコレートとダイヤモンドしかなかった。そういった事情からカトリック・スクールに通った後、彼はインダストリアル・デザインを学ぶことを選択する。インダストリアル・デザインスクールでは、ファニチャーや車、障害児のための自転車やエッグ・ホルダーといったものを作っていたのだとか。そうしている間にAntwerp Sixが出現し、彼は次第にファッションに魅了されるようになる。Martin MargielaやHelmut Langに耽溺したラフは、それらのブランドの服を買う余裕が無かったのでフリーマーケットで材料を買い、彼らのデザインを模倣した自分が着るための服をつくり始める。

当時のアントワープにはRoyal Academy of Fine ArtsのディレクターであったLinda Loppaによる"Loppa"と呼ばれるショップがあり(湾岸戦争を機に1991年頃にクローズとのこと)、そこでHelmut LangやDolce & Gabbana、Romeo GigliにJean Paul Gaultierといったブランドが取り扱われていたとのこと。ラフはこのショップの存在からLinda Loppaという人物を知る。

インダストリアル・デザインスクール在学中、2つの異なる場所でインターンシップを行わなければならなかったラフはハードコアなインダストリアル・デザインスタジオでインターンをすることが嫌だったので、Walter van Beirendonckに(ファッション・スクール出身では無かったので、とても恐れつつも)手紙を書く。そして、The Faceやi-D magazineの表紙などを用いて偽のポートフォリオを作成し、ウォルターとの面接では、こういうものを自分は学校で作成しなければならなかったと説明する。フェイク・ポートフォリオをパラパラと興味無く捲るウォルターが目を留めたものは、(ポートフォリオとして提出しても意味が無いだろうとラフが考えていた)インダストリアル・デザインスクールで制作を行ったエッグホルダーのデザインであり、それが理由で彼はインターンとして採用される。ファッションではなく、インダストリアル・デザインができる人材として採用されたラフは、Walter van Beirendonckのコレクション(1990年の"Fashion is Dead."など)のために香水ボトルやマスク、家具といったものをデザインすることになる。

1989 playground show by Martin Margiela.

ウォルターはパリで行うショーの手伝いのためにラフをパリに同行させ、そこでラフに生涯初となる生のファッションショーへ連れて行く。Jean Paul Gaultierのショーではフロアに設置された回転するターンテーブルの上にモデルが乗って上昇し、ラフが最もエモーショナル・インパクトを受けたというパリの黒人居住地区にある子供たちの遊び場で行われた1989年のMartin Margielaの3回目のショーでは、白いロングコートや透明のPVCを身に着けたモデルとローカル・チルドレンが戯れる。その時のことを思い出してラフは、「私が今までとは異なる方向でファッションというもの(の可能性)を理解した瞬間でした。」と話す。

ファッションデザイナーの下でインターンをしていたラフは、インダストリアル・デザインスクールの周囲の人間には頭がオカシイと思われており、嫌われていたという。インターンシップをもう一つ異なる場所で行う必要があったため、ラフはハードコアなインダストリアル・ファクトリーに半ば強制的に押し込まれることになる。そこは、24本のビール瓶を運ぶことができる運搬具を製造している工場であり、人間工学的にその運搬具を改良することが求められる場所であった。ただ、ラフによれば、型にプラスチックを流し込んで生産されるそれらは、デザイン(形)をどうするというレベルのものでは全く無かったという。

ラフはいつ終わるとも分からないその工場でのインターンにおいて、自分のこれからの人生をこういった仕事(コンピューターの前に座って行う孤独な作業)に費やすことはできないということを確信する。そして、デザインスクールにはこのファクトリーでインターンを続けていると嘘をつき、実際はウォルターのスタジオへ足を運ぶようになる。
ラフの目には、インダストリアル・デザインの世界は人間の感情の無い冷たい閉じた世界に映ったようで、彼はウォルターのスタジオを「もう一つの世界」と呼び、"It was wild."と表現している。当時のウォルターのアシスタントは、5、6人のラフと同じ年齢のグループで構成されており、ウォルターは彼らをパリやヴェネツィア・ビエンナーレ、そして、フィレンツェといったところへ連れて行き、プレゼンテーションやフォトシューティングを経験させる。ラフによれば、それはとてもソーシャルな経験であったという。決してステージに上がるようなことはせず、パブリック・スピーキングも好きではないラフは自分自身のことを社会的な人間では無いと言いつつも、そういったソーシャル・コンタクトが好きだと語る。

後年、インダストリアル・デザインの世界からファッションの世界へ切り替えた理由についてラフは、「インダストリアル・デザイナーとして、あなたは一人でものをデザインします。そして、デザインしたものはあなたの元から去ってしまいます。ところが、ファッション(服)は肉体と心理への恒常的な関係がそこにあります。それは物事をより複雑なものにし、そして、より挑戦的なものにします。」と答えている。

インダストリアル・デザインスクールを卒業後、ラフはそのままファッション業界にストレートに飛び込まずに彼が「潜伏期間」と称するものに2年程時間を費やす。その間、彼はフリーマーケット・ディーラーやファニチャー・デザイナーとして生計を立てる。そうした後、ウォルターの下でのラフの活動を耳にしたLinda Loppaが「彼に会ってみたい。」と言い、ラフとリンダは会うことになる。こうしてラフに転機が訪れ、アントワープへ引越しをし、そして、リンダは彼の第二の母のようになる。

ラフによれば、当初、リンダはラフの制作する家具に興味を持っていたとのことで、ラフをギャラリーに入れて、ファニチャースタジオの代表(店主)にさせようとしていたという。ファッションに魅了されていたラフは彼女にアカデミーの学生にしてくれるように懇願するが、彼女はそれを拒否する。その代わりに、テーラーをしていた彼女の父をラフに紹介し、彼にコレクションを発表させようとする。500ものデザインアイデアから成るラフのファーストコレクションのサンプル制作をリンダの父が手伝い、それを一人で行わなければならないとリンダは言い、イタリアのミラノにあるDaniele Ghiselli(ヨーロッパのファッション販売代理店)へラフを行かせる。その結果、1995年に発表されたラフのデビューコレクションはショールームでHelmut Langの服と一緒に掛けられ、全て売り切れることになる。ラフによれば、それは売るために制作したコレクションではなく、リンダに自分は服をデザインすることができるのだと認めさせ、アカデミーに入学することができると思わせるために制作したコレクションだったという。

こうして誕生した「Raf Simons」というブランドは、ビジネス面についてはDries Van Notenに関わっていたビジネスピープルが支えることになる(ちなみにLinda LoppaはDries Van Notenで働いた過去を持つ)。そしてこの頃、プライベートではVeronique Branquinhoとの出会いがあり、二人の生活が始まる。彼らは1995年から2000年までの5年間を共に過ごす。尚、ラフの1996-97AWのコレクションの8mm映像の中には、ストリートからキャスティングしたモデルの中に混じり、ヴェロニクがモデルとしても出演している。

アントワープのカフェでラフとOlivier Rizzoが座っている時、自転車で通りかかったのがヴェロニクであり、これが彼らの最初の出会いとなる。ヴェロニクによるとラフは、「彼は私と比較してとても真面目な人でした。」「私はロックンロールで、ワイルドな女の子だったので。それは彼の世界ではありませんでした。彼はそれ(ロックンロール)に非常に興味を持っていたので、彼はその世界に接続している人たちを常に自分のまわりにおいていました。しかし、それは決して彼の世界でありませんでした。」とのこと。ヴェロニクの指摘は、モデルでラフのアシスタント(マネージャー)でもあるRobbie Snelders、Raf Simonsのグラフィックデザイン面において大きな役割を果たすPeter de Potterらを見れば明らかであると言える。

Raf Simons' Final Jil Sander Show

Linda Loppaによれば、ラフの性格は粘り強く、独占欲が強いとさえ言えるのだとか。更にヴェロニクによれば、「彼は周囲の人々のすべてのことを知っていたいです。」「彼は非常に要求が多いです。それは妥協を許さない愛についてのものです。」とのこと。デザイナーとしては粘着質でコントロール・フリーク、妥協を許さず完璧を求める性格は最適だと言えますが、ボーイフレンドとしては・・ということでしょうか(笑)。
Olivier Rizzoによるとラフのそういう性格は、自分自身とそして周囲への真剣な誠実さの裏返しなのだとか。オリヴィエが1993年にアカデミーを卒業する際に行った最後のショー(ゴルチエが審査員をしていた)では、ラフは感動して泣きながらバックステージへ来てオリヴィエに「あなたがしたことは本当に驚くべきことです。とてもファンタスティックで、そして、私はその世界の一部になりたかったです。」と話したという。ラフは非常に感情的な人間であり、そういった状況にとても深く感銘する。2012年2月のJil Sander在任中の最後のショーにおいて、フィナーレで感情を表して涙したように昔から感受性の強い繊細な心を彼は持っている。

2005年5月にPradaグループ傘下であったJil Sanderのクリエイティブ・ディレクターにそれまでウィメンズウェアの経験が全く無かったラフが任命された時、多くのファッション・エディターとリテーラーはその予想を外す。メンズウェアの世界で良い仕事をしていたとしてもウィメンズウェアのデザインをしたことが無かった彼は、ファッション業界においてはある意味でまだアノニマスな存在であった。

ロンドンにあるセレクトショップ"Browns"のオーナーで、Jil Sanderの初期からの忠実なファンであったJoan Bursteinはラフの起用を"Oh god, here we go"と思ったという。彼女は続けて、「でも、彼は賢かったです。彼はJil Sanderというブランドを尊重することから始めました。そして、彼はバイヤーと顧客の尊敬を得ました。その後、彼は自身をJil Sanderの支配から解放しました。」と話す。最初にブランドを尊重することから全てを始めるというのは、現在のChristian Diorでも全く同じことを彼はしている。ラフはJil Sanderのクリエイティブ・ディレクターに任命された時を振り返って、「私は本当に怖かったです。」「それは、初めてウィメンズウェアをデザインしていました。彼女(創始者であるJil Sander)は非常に人々から尊敬されており、誰も自分に(Jil Sanderで成功する)チャンスを与えてくれるとは思いませんでした。」と語る。

Jil Sanderのアトリエがあるミラノとシグネチャ・ブランドのアトリエがあるアントワープを1週間ずつ交互に行き来するという生活をしていたJil Sander時代。現在は、Christian Diorのアトリエがあるパリとアントワープを1週間ずつ交互に行き来する生活をラフは送っている。ラフは、「Christian DiorとRaf Simonsというブランドの間の運動が私は好きです。Christian Diorは、女性のための巨大で歴史的なブランドであり、非常にやりがいと自由を感じます。一方、自分のブランドはそれとは異なる種類の自由があります。私はその間を行き来します。それは脳にとても良いです。自身でブランドを所有することは、(他のブランドの)クリエイティブ・ディレクターであることとは心理的に非常に異なります。私は決して自身のブランドを手放しません。」と話す。尚、Christian Diorのパリにあるオートクチュールのアトリエには約75人のスタッフ、プレタポルテには50人、アントワープにあるシグネチャのアトリエには8人のスタッフがいる。

Raf Simons' Home in Antwerp

自身のクリエイションにも色濃く反映されているアートとの関わりについて、「私はアーティストに関する本を読むことに多くの時間を費やします。そして、彼らがどのようにして何にアプローチをしたのかを理解しようとします。」と彼は話す。アート・コレクターとしても活動をしている彼のアントワープの自宅には、Sterling Ruby(2008年にオープンし、2010年にクローズした東京・南青山のRaf Simonsの旗艦店の内装は彼によるもの)、Mike Kelley、Evan Hollowayといったアーティストの作品からPicassoやPol Chambostの器(陶器)、Jacques and Dani Ruellandの花瓶(これはMarc Jacobsもコレクションしている)、Juliette Derelの鏡、そして、Brian Calvin、William Daniels、Cristel Brodahlらの絵が飾られており、ラフによると「私の生涯は、創造的なものによって常に囲まれていなければなりませんでした。」「私は他の人々によって創られた作品に接することで、リラックスすることができると分かりました。」とのこと。
デザイナーやアーティストについては、「本来、クリエイティブな人々というものは、(ある場所に留まらずに)進化することや(未知の領域を)探検するのが好きです。」「それは、必須(の資質)です。」と彼は語る。

自身の音楽体験とユース・カルチャーをベースにスタートしたRaf Simonsのクリエイション。これまでの歴史の中でウィメンズウェアのコレクションを行ったことが一度も無く、ビジネスとしては成立し辛いメンズウェアのみでの展開で現在まで来た理由をHumberto Leonから問われたラフは、「当初、メンズウェアだけをするつもりはありませんでした。ブランドの方向性は、私と関連することが有り得た若い世代のために服を創りはじめることでした。メンズウェアのみを開始するという選択は、服をすべて自分でつくらなければならなかったという現実的・経済的な理由によるものです。しかし、女性はショーの後、(私のメンズウェアの)服に常に反応しました。したがって、時々、私たちは女性サイズの服をつくります。最近、多くの男性が女性の服を着用し、女性が男性の服を着用するのを目にするので、そのことについて私は考えています。」と話す。

シグネチャ・ブランドでメンズウェアのみを行っていた時代にあまり有名になれなかったことについては、「私は私が信じることをしてきました。多くの人たちに認知(評価)をされるということはどういうことですか? 私にとって認知とは、身近に関係を持っている人たちのことを指します。アメリカのいくつかの都市のどこかで、誰かは私の服を着ています。そして、私はそれに満足しています。」とのこと。

世界の国々のファッションを仮にカリカチュアライズするならば、「アメリカが人を幸せな気分にさせる単純な服をつくり、イタリアは情熱的でセクシーな服をつくる。フランスが非の打ちどころの無いシックな服を、イギリスは創造的でエキセントリックな服をつくり、日本がアバンギャルドでコンセプチュアルな服をつくる。」となるだろうか。そういった国々の中でベルギーは、ダーク・ゴスでクール、実験的でシリアスな服をつくる。ELLE UKのRebecca Lowthorpeが言うように、ラフはクールな男性というよりも温かくて穏やかで素直な男性である。そういう性格とは対照的に、彼の創る作品というのはとてもクールで切れ味が鋭いというのがとても興味深いところでもある。

ベルギーの田舎町で生まれ育った音楽少年はいつしかファッションに恋をし、正規の教育も受けずにメンズウェアのブランドを開始する。その後、思い掛けずJil Sanderでミニマリズムとウィメンズウェアのロマンスを学び、ロマンチシズムとミッドセンチュリー・アートのモダニズムをオートクチュールの概念を交えて融合させる。そして、Christian Diorのアーティスティック・ディレクターに就任。シグネチャ・ブランドとJil Sanderで培ったクリエイティビティをベースに、このヒストリカルでレジェンダリーなChristian Diorというメゾンをモダナイズする任務に就く。

Interview MagazineでのKanye Westとの対談の中でラフは、「私はカメレオンのように絶えず変化するというアイデアが好きです。しかし、それは(次第に)難しくなります。ファッションは音楽の世界と同じように新しい世代の人たちをとても強烈に扱い、本当に変化というものを評価します。しかし、音楽の世界では、たとえ50年間のビジネスにおいてもアーティストはステージの上に立ち続けることができ、50年前からその歌を歌います。そして、オーディエンスはその同じ歌が好きで、彼らはそれを尊重し、アーティストのそれに敬意を表します。ファッションにおいて、その点はそのようではありません。私はステージに行き、10年前と同じコレクションを出すことができません。それは機能しません。(そんなことをすれば)私はきっと死んでしまうでしょう。」と語る。

ファッションが「エボリューション」ではなく、もはや単なる「サイクル」でしかなくなりつつある世界の中で、その鎖を断ち切り、前に進もうとする意志を持った彼らのような存在。クリエイションにはゴールというものが無く、それは常に澱み無く流れ続ける水のようなものであり、理想とその超越への限りない接近と不可能性への挑戦に立脚する。
ここではないどこかを求め、彷徨い、理想郷は存在しないと知りつつも決して彼らは歩みを止めない。自身の人生を賭け金に服に愛情を注ぐ人々のことを我々はファッション・デザイナーと呼ぶのである。

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Dior Homme Omotesando Renewal Reception Party

クリスはDior Homme 14SSコレクションのようなバーガンディーのセットアップに、シグネチャと思われるスニーカーを合わせていましたね。パーティーでは、祐真朋樹や成宮寛貴らの姿もありました。

リニューアルされたB1Fは鏡の仕切りも無くなり、かなり開放的な雰囲気になっていました。自分の想像よりもそこまでラグジュアリーしていなかったかなと。むしろ爽やかな感じで好印象でしたね。

スプリングコレクションについてはシャツやニットが気になった感じで、Lookbookも見せて頂きましたがいつものようにセットアップが中心になっています。コートはオーバーサイズのドロップショルダー気味のシルエットで、Tシャツ等には変形型のVネックのものがあり、プレコレクションではよく登場するフード付きのジャケットや完全にKVAしているハイカットスニーカーなどもありました。

まだ東京には秋が来ておらず、買った服を全く着ていないのですが・・、スプリングコレクションの立ち上がりは来月中旬ということなのでそれを楽しみに待ちたいですね。4FのM/M Parisとのコラボによるインスタレーション会場で流れていたKarim Sadliが撮ったスプリングコレクションのカタログフォトの映像も良い感じでしたので。


Chanel 14SS Collection

Grand Palaisをアート・ギャラリーに変えて行われたKarl LagerfeldによるChanel 2014年春夏コレクション。会場にセットされたカメリアやパール、No.5 ボトルといったChanelのアイコンをモチーフとした75のアートピースは、もちろんカールによるもの。Michel Gaubertによるサウンドトラックは、テーマに合わせてJay-Zの"Picasso Baby"だったようですね。
「アート」をテーマに据えた今回のコレクションに関してカールによれば、「人生はレッドカーペットではありません。これは、デイリー・ライフのためのものです。私はカラーとフレッシュさが欲しかったです。それはとてもハッピーなムードです。」とのこと。

カラーパレットはモノトーンを中心にし、そこにピンク等を用いる形でショーはスタート。ツイードジャケットのセットアップのように見える軽快なノースリーブ・ワンピースは、スカートの裾の両サイドにジッパー・スリットを入れ、ウォーキング時に運動(流動性)を伴うようにデザインされる。モデルが手をやるポケットの位置はLookによって巧みに操作されており、腰に手を当てるポージングやチェーン・ショルダーバッグのチェーンに手をやる等、(ラガーフェルドがフィナーレでジャケットを掴んで歩くように)仕草まで含めてLookは完成する。

ツイードにレザーやレースといった異素材切り替えしによるデコンストラクション、パイピングのようにアクセントを与えるブレード、アシンメトリーを描くワンショルダーのドレスやニット、トロンプルイユのようなオーバーサイズ・デニムジャケットに前身頃と後身頃が前後逆になったようなリバーシブル・ウェア、チュールの細片を縫い合わせて貼り絵のようにコラージュしたジャケットなど、アートの技法をファッションへと言語変換しているLookが目を惹きましたね。Chanelらしく水夫のSailor Collarのように肩掛けセーターを用いていたのも新鮮だったかなと。巨大な真珠をモチーフにしたヘッドフォン・チョーカーネックレスにサンバイザー・サングラス、そして、ソックス・シューズといったアイテムも遊び心があり、ショーはとてもポジティブなエネルギーに満ちていましたね。

ショーの終盤ではカラフルなブラシ・ペインティングをフィーチャーしたペインタリーなLookが登場。筆致が描くグラデーショントーンの階層性にフォーカスし、プリーツを多用することで服としても階層性を表現していたのは面白いアイデアだったと思います。

Sam McKnightによる外に広がったヘアスタイルは、「70年代のフリック・ヘアーとスターウォーズのダースベイダーの中間」とのこと。全身黒で少しエキセントリックな服を着た芸術家の女性をイメージしてのヘアスタイルだったようです。
Peter Philipsによる目にインパクトを置いたメイクアップは、ペイントカンパニーのサンプルカードっぽい感じになったとのこと。左右の目がわずかにアシンメトリーになるように計算してメイクがされたようです。

カールの説明の通り、全体的にかなりミニマルでウェアラブルなコレクションでしたね。シルエットもほどよくタイト/コンパクトで、フォルムよりもファブリックの素材使い等に重心が置かれていた感じ。春のよく晴れた日に着てお出かけするのに最適な小気味良いコレクション、といったところでしょうか。

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