This is Not here - *//LIKE TEARS IN RAIN

Behind the Scenes of Dolce & Gabbana "Alta Moda" 13SS Couture Collection

昨年7月にデビュー・コレクションが行われたDolce & Gabbanaのクチュールラインとなる"Alta Moda"。今年の1月末には第2回目のコレクションが行われましたが、その舞台裏の様子がtelegraph.co.ukで書かれていたのでご紹介。Dolce & Gabbanaのクチュールラインはかなりプライベートに披露されているので、こういうアーティクルはとても面白いですね。

今のこの時代にクチュールラインを開始することにどれだけ意味があるのか?という疑問は多くの人が持つかなと思います。オートクチュールがビジネスにならないというのは何年も前からのコモンセンスであり、過去にLVMHのBernard Arnaultは「オートクチュールは、我々のビジネスにラグジュアリーのその重要な本質を与えることにあります。オートクチュールによって失われるキャッシュ(現金)は主に問題でありません。我々の損失に対する対価は、クチュールが我々に与えるイメージの価値でなければなりません。」と話していますね。
Domenico Dolceは"This is not work, this is pleasure"と話していたようですが、Bernard Arnaultと同じような考えで彼らもクチュールラインを開始したのかは気になるところです。


David Bowie's House on the Island of Mustique

写真は、Architectural Digestから。1992年頃のDavid Bowieと妻のImanですね。
アーティクルは、カリブ海のマスティク島にあるDavid Bowieの別荘を紹介したもので、別荘はインドネシアからインド、エジプト、モロッコ、そして、ロンドンといった多くのカルチャーをミックスした感じになっています。
David Bowieと言えばUKのイメージがとても強いと思いますが(英国人なので当たり前ですけど)、彼にもこういう一面があったというのはとても面白いですね。ちなみに、マスティク島にはMick Jaggerの別荘もあるようです。

最近は、David Bowieの回顧展"David Bowie is"がロンドンのVictoria and Albert Museumで3月23日から8月11日まで行われており、ネット上でもいろいろと彼についての記事を見掛けますね。


an issue of Saint Laurent by Hedi Slimane 13-14AW Collection

ウィメンズの2013-14年秋冬コレクションまでを見たSaint Laurent by Hedi Slimaneの感想は、tFSでの多くの書き込みやCathy Horynのレビューとだいたい同じといったところです。Saint Laurentというブランド名に変更し、予めエクスキューズを用意しているとは言え、わざわざYves Saint Laurentであのコレクションをやる意味があるかと言えば現時点ではその理由は見つからないでしょう。

実際にブティックで2013年春夏のアイテムをチェックし、1月に行われたメンズの2013-14年秋冬コレクション、そして、今月披露されたウィメンズの2013-14年秋冬コレクションを見ても思いましたが、デザインうんぬん以前にそもそものプロダクト・クオリティが追いついていない印象が強いですね。13-14AWはグランジを根幹においたコレクションですが、質感がハイブランドにしては粗野過ぎるというのがあり、それが理由でメンズはホームレスのティーンエイジャー・ロックンローラー、ウィメンズはLos Angelesの売春婦といったように揶揄されてしまっていますね。

もちろん、プロダクト・クオリティのみがその理由ではありませんが、せめてハイブランドのアイテムとして成立する最低限のクオリティは維持して欲しいかなと思います。エディはあのクオリティで満足しているのだろうか?と思ってしまいますし、今までそれなりに買い物をし、目を養ってきた顧客にとってあのクオリティのものに数千ドルを支払うのは有り得ないのではないかなと。Cathy Horynが"Saint Laurent"というブランドネームしかその価格を正当化しない(中身がブランドネームに伴っていない)という感想を持つのはしょうがないでしょう。
Tim BlanksがShibuya 109やTrash and Vaudevilleを引き合いに出し、Vogue.comではCourtney Loveのコレクションの感想からValue Villageが引き合いに出されていますが、その気持ちはよく理解できます。

13-14AWはもしかするとプロダクト・クオリティが担保されたアイテムが上がってくる可能性も無くはありませんが、どうなのでしょうね。tFSで紹介されていたこちらのムービーで見ると確かに写真よりはコレクションが良く見えます。アイテムのクオリティ問題はアトリエと生産工場のテクニカルな問題になりますが・・、そもそもあのグランジ・アイテムがハイエンドの格式高いブティックに陳列されるというのがそれはそれでとてもシュールな光景ですね。
ちなみに、ムービーの中でショーの感想を求められたCatherine Deneuveは(ショーを見て)ショックを受けているように見えると書かれていたりしますが、どうでしょうか。Pierre Bergeは相変わらず好意的な見方をしていますね。

ちなみに、Saint Laurentの13-14AWと比較されるコレクションとして、Marc Jacobsがその当時、その職を馘首される端緒となったPerry Ellisでのグランジをテーマにした1993年春夏コレクションがあります。当時、Marc Jacobsからそのコレクションを贈られたCourtney LoveとKurt Cobainはコレクションアイテムを自分たちには合わないという理由で捨てて(燃やして)しまったというエピソードなんてのもありましたが、今回のSaint LaurentのコレクションについてCourtney Loveは好みだったようです。

メンズとウィメンズのランウェイショーを見ながら感じたことですが、Dior hommeの頃はモデルがクオリティの高い服を着て少し俯いてさり気無く歩くスタイルで、そこには詩的で寂しげな美しさがあったのですよね。それが、Saint Laurentでは服のクオリティとは対照的に(革新性や新奇性が無いにも関わらず)モデルが自信有り気にで歩くので、それがどうしても寒く見えてしまいます。「グランジ」というファッションに無関心な(ように見える)ティーンのリアルでフラジャイルな内面性を表現するというテーマ性とコンフリクトを起こしてしまっており、チグハグ感がとても強いですね。

ウィメンズの服のデザインに関しては、Suzy Menkesがレビューで書いているようにエディはまだ「一年生」なのでどうしても不慣れな部分があるでしょう。彼がファッション界を離れ、写真を撮っている間にJil Sanderで7年弱もウィメンズのコレクションを積み重ねてきたRaf Simonsとエディを比較する報道が過去にWWDでありましたが、ウィメンズのキャリアが全く違う二人を安易に対比させる図式は明らかに前提が間違っていますね。それはつまり、小学生と中学生を比較するようなものなのですから。

Hedi Slimaneのクリエイションのコアには中性的な少年性(少女性)といったものがあります。青春期のある一瞬にだけ現前するモラトリアム期のナイーブでアンニュイな、少年と少女の、未成年と青年の、危うく美しい変曲点。そのピュアなメンタリティを高い透明度を伴って表現していたのがDior homme時代でしたが、Saint Laurentでは全体的に透明度や艶(色気)が足りないかなと思います。そして、ヨーロピアンエレガンスやシックなムードが描けておらず、アメリカンカジュアルに堕しているのは彼自身の趣味が過ぎますね。彼は好き勝手にやらせると大衆性が無くなり過ぎるタイプだと思うので、リミッターを付けてある制約の中でモノを創らせた方が良い結果が出せそうです。

ただ、ウィメンズの13-14AWコレクションから個人的に感じることは、エディ自身は女性への接し方や描き方があまりよく分かっていないのでは?ということがありますね。ベビードール・ドレスを最初見たときには、中年男性のロリコン趣味的な薄気味悪さを感じてしまい、無理して自分の中には無い可愛らしさを描こうとしなくても良いのに・・と思った次第。彼の青春期への執着が稚拙な「幼さ」として悪い方向で働いてしまっていたと思います。

ウィメンズのファッションでは、女性の気持ちを第一に考え、女性をエスコートするようなコレクションが求められますが、それよりも自分のやりたい事や趣味を優先させるプロダクトアウト的なプレゼンテーション手法は余程でなければ失敗する可能性が高いかなと思います。Christophe DecarninによるBalmainにはEmmanuelle Altがいましたが、エディがこのまま我が道を突き進むつもりならそういう人物がきっと必要でしょうね。

そして、彼自身が女性の魅力についてどれだけ興味があり、今現在、ファッション自体にどれだけ情熱があるのか?というのがクリエイションにおいては一番重要な問題ですね。世の中に対して提示したい思想やアイデアがどれだけあるのか、デザイナーとは自分なりの適切な課題や問題を見つけることができるかどうかがクリエイションのキーになるのですから。今回のコレクションで言えば、今の時代にロックンロールやグランジがどれだけの意味を持つのか?というのがリアリティを伴って表現できていないのはイデオロギーが不足している証左と言えるでしょう。もし仮にアンチ・ブルジョワジーがそれを指すならばあまりにもステレオタイプ過ぎるテーマであり、それに対するソリューションがロックやグランジだというのは安易過ぎますね。
更に敷衍すれば、ランウェイショーの後にエディターの質問を完全にシャットアウトしているのも創り手のアカウンタビリティとしてそれは違うでしょう、と。受け手に想像させる創作手法はポピュラーですが、Karl Lagerfeldであれ、川久保玲であれ、全く説明しないということは有り得ないのですから。

ウィメンズのファッションはメンズよりも制約が少なく、間口が広いですが、確かな鑑識眼を持ったエディターやハイエンドな顧客に対してはビギナーズラックや小手先でどうこうなる問題では無いということが今回のランウェイショーで露呈した訳ですが、エディもできればどこかで過去にウィメンズの経験を少しでも積むことができていれば良かったのですけれど、ね。それには彼は、Dior hommeで成功し過ぎてしまったし、有名になり過ぎてしまったし、偉くなり過ぎてしまったんだな、というのが率直な感想です。そういう意味で言えば、エディは少し可哀想ですね・・。
13-14AWのLFWでランウェイショーに復帰したTom Fordもそうですが、一度ゲームから和了った彼らがワザワザ下界に降りてきたのは、やはりスポットライトの眩しさが忘れられなかったからなのでしょうか。

Suzy Menkesが日本の繊研新聞を引き合いに出して、日本ではSaint Laurentの人気が急上昇中であると書いているのですが、それに対してtFSで"the japanese are known for a consumer culture that verges on the insane."(日本人は狂気的な消費者文化で知られているから。)と嘲笑されてしまっていますね。日本人に西洋文化をベースにしたファッションやクリエイションの本質というものはどうせ理解できないでしょ?と言われてしまえばそれまでではありますが・・。川久保玲や山本耀司以降、本気で世界と勝負できるデザイナーを輩出できていない現実がある以上、そう言われても仕方が無いでしょうか。ファッションに限らず、ある文化とは創り手と消費者が一体となって文化体系を形成するので、そこにコミットする人たちのレベル以上には文化水準は成長しないのですよね。

エディターやジャーナリスト的な目線で少し言えば、好きだけれど評価してはいけないコレクションと嫌いだけれど評価すべきコレクションが世の中には存在するでしょう。人間なので感情は大切ですが、感情だけで物事を推し量るのはプロフェッショナルでもインテリジェンスな行為でもありません。まして広告費やランウェイショーのインヴィテーション目当ての拝金主義的な振る舞いは誰からも尊敬も信頼もされないですね。Suzy MenkesやCathy Horynといった海外の書き手が多くのFashion Loversから愛されているのは、社会的な公共性や業界全体の利益を考慮し、言うべき時に言うべきことを言うからなのですから。
翻って、日本のエディターやジャーナリストがどういう状況にあるのかは寡聞にして知りませんが、日本のファッションの文化レベルを押し上げたいと本気で願うのならば、それ相応の規範となるような振る舞いが求められるのは言うまでもありませんね。

話を元に戻して最後にしたいと思いますが、誰もがその存在を忘れつつある埃を被ったブランドならいざ知らず、Yves Saint Laurentという世界的に有名なブランドを引き継ぐ場合には、やはり創設者の美学を尊重すべきでしたね。いきなりすべてを変えるのではなく、白から黒へのグラデーションのように緩やかに物事を変えていくべきだったかと。パリコレクションという場では、逐次的改善の持続的イノベーションではなく、破壊的イノベーションのエポックを皆は期待していますが、今回のエディのやり方はイノベーションというポジティブな言葉とは真逆の方向でしかないのが残念です。
彼がファッション界に復帰するというニュースが流れた時が一番期待値が高く、その後のAD Campaign等の写真も含めて、全てが予測され得る範囲内で今現在まで推移してきているのでこの状況に個人的にはあまり驚かなかったりもしますが。一度、自分の型が出来上がってしまった創り手が、その殻を破って新しいものを創り出すのはそう簡単にはいかないですから、ね。

ピンチをチャンスに変えるという意味でこの状況から彼が多くのことを学び、また、素敵なコレクションを見せてくれると良いのですけれど、今後はどうなるのでしょうか。いつまでKERING(元PPR)が彼をYves Saint Laurentのクリエイティブ・ディレクターとして採用し続けるのかが気掛かりですが、次の2014年春夏コレクションの成否が一つの分水嶺になるのかもしれませんね。

2013 Spring/Summer Shopping Collection

東京もジャケットで出掛けられる季節になってきたので、Dior hommeの13SSコレクションの1st Lookで使われたメタルボタン・ジャケット(Black Ver.)等を最近は着ています。Dior hommeでは他にもカーディガンやTシャツ等も買ったので、ジャケットが着られない頃になったらそれらを着ようかなと。今シーズンのDior hommeはもう少し欲しいアイテムがあるので、それらを買って終了の予定です。コレ外品がメインになっていますけれど・・笑。

前述のジャケットですが、いつもよりも若干値上がりし、税込みで30万を超える価格になっています。そして、バージンウールもいつものものとは若干、質感が違いますね。今シーズンは、メタルボタン系のアイテムやレザー系のウェアが全体的に良い値段をしていたのが印象的です。
少し余談になりますが、LVMHは2月半ばに日本国内のLouis Vuittonで値上げを実施しましたが、Christian DiorやDior hommeも価格改定がそれに合わせて若干ですが実施されています。Dior hommeはウェアを中心に、Christian Diorはバッグやウェアなど全体的に上がっていますね。ヴィトンほどの値上げ幅ではありませんが。

あと、今シーズンは久しぶりにRaf Simons等も買ってたりするのですが、ラフはいつの間にかずいぶんリーズナブルな値段になっていますね。代理店を通さなくなった影響だと思いますが、イタリア製の長袖シャツが3万円前後といった感じで買い易い価格帯になっています。コレ品の価格帯まではチェックしていないのでアレですけれど。取り扱われるアイテム数自体は、相変わらず少ないですね。

この文章を書いていて思ったのですが、何故かラフもクリスも日本国内でのシグネチャの取り扱いが少ないという共通点がありますね。二人ともDiorでデザイナーしてるのに(笑)。どちらもメンズなのでビジネスとして成立し辛いのでしょうけれど、もう少し多くのアイテムを実際に手にとって見れるようになってくれると良いかなと。LVMHが彼らのシグネチャに資本参加したという話は聞かないので、そういうニュースが流れれば少しは状況も変わるかなと思っていたりしますが、二人はシグネチャはシグネチャでマイペースでやりたいのかもしれないですね。小さくとも独立性を保ち、モノ創りを自分のペースで続けていきたいという考えはとても大切なので、彼らがそれを望むならば周りは温かく見守るのが一番良いと言えるでしょうか。

Chanel 13-14AW Collection

世界各地のブティックのある場所に旗を立てた巨大な地球儀をGrand Palaisにセットして行われたKarl LagerfeldによるChanel 2013-14年秋冬コレクション。ブティックの数はインショップ等も含めて300とのことですが、それに関してカールは、「私はとても幸せなままでいられます。私がChanelでスタートを切った30年前は、ブティックは3つか4つしかありませんでした。」と話していましたね。そして、世界地図の左下(アフリカ大陸)辺りにまだスペースがあるよね、と言っていたのも彼らしい感じです。

"The spirit of the show was Chanel's globalization,"というカールの説明があったようにコレクションのテーマは、グローバリゼーション。
シルバー・チェーンで飾られたサイハイブーツに、太腿を露にするためにカットされた膝下丈のツイードコート。コートの下から僅かに顔を出すプリーツスカートに、袖口や裾を折り返してバイカラー・アクセントが付けられたメタルボタンコート。ショルダーの曲線が立体的なスタンドカラーのボックス・シルエットコートに、1Lookだけ登場したフラワーパッチのデニムパンツ。グラフィックパターンがあしらわれたセータードレスに、ネックレスが編まれたクリーム色のパッチポケット付きチャンキーニット。サイクロイドパターンのジップブルゾンに、モノクローム・フラワー刺繍が爆発したデコラクティブな結晶ドレス。
そして、ショーの後半に登場したパフ・スリーブとフレアスカートによるプレーンなLBDに、透け感のある素材使いが美しいシースルードレスでフィナーレを迎える。

ブレスレッドはチェーンを用いたものと職人のハンドワークによって糸で編まれたものがありましたね。目を惹いたミンクのハットは個人的には少し蛇足で、コレクションが全体的にノーマルだったので強度を上げるために取り入れた感じがしたかなと思います。

グローバリゼーションというテーマと服自体の関連性は低く、"all about fabrics,"というもう一つのカールの説明の方がコレクション全体を表現していましたね。11-12AWからの秋冬コレクションは基本的に同じような方向性で推移しており、大胆なシルエットとダーク系のツイードを用いたLookはどうしても重さを感じさせます。クラシカルと言えばクラシカルではありますが。憂鬱なコレクションでは無いとカールが話していたように憂鬱さはありませんでしたけれど、ね。

Chanelのデザイナーに就任してから今年で30周年を迎え、自身も80歳を迎えるKarl Lagerfeld。デザイナーとして和了ってしまう訳でも無く、リアルとファンタジーのフロントラインであくまでも女性のために服をクリエイトし続ける姿勢は創り手として敬仰する以外の何物でもありませんね。

via style.com wwd.com vogue.com runway.blogs.nytimes.com nytimes.com washingtonpost.com tFS

Christian Dior 13-14AW Collection

シュールリアリズムを暗示させる鏡の球体と空が描かれたフロアをランウェイにして行われたRaf SimonsによるChristian Dior 2013-14年秋冬コレクション。今回は、ムッシュ ディオールとRaf Simons自身の比較が一つのテーマとなっていましたね。

Jil Sander時代にLeonard Foujitaのアートワークを用いたように、今回はAndy Warholの初期のドローイングをシフォンのドレスや(クラッチ)バッグにフィーチャーしてショーはモダンに進行していく。ウォーホールの使用に関してラフによれば、「(アートへの興味関心について、ムッシュ ディオールは)ベルエポックに関するものでした。そして、私の場合は、ミッドセンチュリーについてのものです。」とのこと。

女性の細いネックラインを優しく包み込むネクタイのような大判スカーフ、デニム・ウールを用いて現代的に表現された"Bar"セットアップ・スーツはワイドパンツに組みにされる。アシンメトリーに描かれたドラマチックなディオールレッドのウールコートは、1948年に発表された"Arizona coat"のオマージュであり、1949年に発表された"Miss Dior dress"と1956年に発表された"Opera Bouffe dress"はブラックレザーを用いてRaf Simonsらしくエッヂを効かせて再構築される。ムッシュが愛したハウスシグネチャの千鳥格子はニットドレスへとモーフィングし、千鳥格子のウール・ビスチェはRene Magritteの作品を連想させるキーホール(鍵穴)のような深いUネックラインを備えたアウターウェアの間から違った世界を覗かせる。
ウォーホールの"Wreath of Birds"が静かに描かれた裾にプリーツを備えたドレス、グレーのクラシカルなドレスの流動性、千鳥格子のビスチェと対にされるアシンメトリーのスカート、そして、シュールリアリズムから影響を受けて刺繍された目や植物のモチーフがあしらわれたフラジャイルなシフォン・フラッパードレスによってショーはフィナーレを迎える。

ラフが「私は、彼(Christian Dior)の最初の10年間を私自身のものと比較したいです。」と話したように、彼が"memory dresses"と呼んだオマージュが散りばめられたドレスたちを中心にコレクションは展開されていましたね。モダンで知的に女性を美しく描こうとする姿勢は、いつものように素晴らしいの一言。Jil Sander時代から続いているフローラル・ピンクの使用は既に彼のクリエイションのトレードマークになっているかなと思います。子供っぽくなりやすい難しい色ですが、上手くコントロールされていますね。

ムッシュ ディオールのギャラリストとしての経歴に着目し、そこに自分自身との共通項(アートへの造詣)を見出すことで、今回はAndy Warholの1950年代のドローイングを使用するというアイデアに辿り着いているのも彼らしいやり方だったと思います。ラフによると「Andy Warholが初期作品において表現していたデリカシーとセンシティビティに興味を持っていました。」とのこと。
単なるブランドのアーカイヴへのアクセスのみならず、ここへ来て彼自身のヴィジョンをより融和させようという勇敢な試みがあったのが、これからのコレクションの変化に期待を持たせてくれますね。

via dior.com dior.com style.com wwd.com vogue.com runway.blogs.nytimes.com nytimes.com tFS

Fashion's Law: Bad Fashion drives out Good.

先月、話題になっていたSuzy Menkesの"The Circus of Fashion"というアーティクルについて少し書いておきます。エスタブリッシュである彼女(もちろん、彼女は自分のことをエスタブリッシュだなんて思っていないと思いますが。)が今のファッション業界にこういう感想を抱くのは個人的にはよく理解できます。単なるノスタルジーや懐古主義と言ってしまえば確かにそれまでかもしれませんが、ずっとファッションの世界を見守り続けてきた彼女の言葉には重みがありますね。

アーティクルは、ファッションウィーク期間中にショー会場の外側で所謂「ファッション・ブロガー」が派手な服を着てストリート・フォトグラファーにスナップされようとしているその様はサーカスのようである、といった話から始まります。スタイリッシュであることには、さり気無さやシックさが必要であり、無駄に高い服を着ているだけのただの目立ちたがり屋は程度が低いという指摘ですが、この意見はよく理解できますね。ストリート・フォトグラファーに撮られようとしている人々のことを"the cattle market of showoff people"と表現しているのが、彼女らしい歯に衣着せぬ物言いです・・笑。

そして、現在、ジレンマであるものは、「ファッションが誰のためのものでもあるならば、それは果たしてファッションと呼ぶことができるのだろうか?」ということにある。ファストファッションの広がりとその速度によって、少数の流行に敏感であったファッション-コンシャス・ピープルがトレンドに気付くタイミングとファッションに精通していない一般人がそのトレンドに覆われるタイミングにほぼギャップが無くなりつつある。
また、デジタルメディアをコントロールし、ブロガーに自ブランドをプロモートさせようという思惑を持ったブランドはブロガーをランウェイショーに招待し、プレゼントを贈り、ブロガーはそれを当然のことのように受け入れ、BlogやTwitterでそれらの狡猾なブランドの宣伝と愚かなセルフプロモーションに勤しむ。その結果、彼らのレゾンデートルであった個性というものが消失しつつあるというのは皮肉なことと言えるでしょう。

ランウェイショーのデジタルイメージが光の速度で世界を巡る今、それは多くのブロガーを批評家に転じさせました。確かに頭の良いブロガーのコレクションレビューが読めることは素晴らしいことです。特に中国やロシアといった(共産圏の)国々において、ファッションに関する考えや夢を共有する可能性が過去にはほとんどありませんでした。
しかし、実際にショー会場でランウェイショーを見るのではなく、Style.comやNowFashionで正面からだけの歪んだ色の写真のみによってコレクションの評価を下すという「誰もが批評家である。」という考えには慎重である必要があります。況して、ブランド側からプレゼント(賄賂)を受け取っているようなブロガーの記事には中立性と信頼性の両面で問題があると言え、物事の良し悪しよりも自分の好みとセルフプロモーションに基づいた主観的なレビューにどれだけの意味があると言えるでしょうか。Suzy Menkesがジャーナリストに成り立ての頃に教えられた言葉は、"It isn't good because you like it; you like it because it's good."ということでした。

彼女が指摘するように、ブロガーがブランド側からプレゼントを受け取るということに何の抵抗も感じないというのはファッション以前のモラルの問題であると言えますね。これに関して、ブロガーのLeandra Medineが"Blog is a Dirty Word"というリプライの中で「まず第一に、私たちはプレゼントを受け取るべきではありませんでした。ランウェイショーへの無料招待旅行やクールなイベント、業界有名人からの評価も自慢するべきでありませんでした。」と後悔を綴っていたりもしますけれど。
ブランド側から何かを贈られることはブロガーのステータスシンボルみたいなものになっており、自分で買ったものをブランド側から贈られたと嘘をつくようなどうしようもない人たちまで出てきていたりしますね。

ブロガーを十把一絡げにしているSuzy Menkesのアーティクルにも問題があると言えばありますが、ほとんどの指摘はその通りと言えるでしょうか。ファッションの世界には昔からそういう人間の醜い部分が内包されていて、逆にそういう人間の愚かな顕示欲や自意識をビジネスの燃料にまでしていたりもしますね(そしてそれらは、昨今のソーシャルメディアと相性がとても良い)。双方どちらも程度が低いと言わざるを得ませんが、これからもそういう人種は人間社会が存在する限り存在し続けると言えるでしょう。ただ、注意が必要なのはそういった意識や欲望というものは誰もが大かれ少なかれ持っているものだということであり、それらは知性や理性によってコントロールされ得るものであるということですね。