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Kris Van Assche in Conversation with Brian Rochefort

Kris Van AsscheによるBerlutiとロサンゼルスを拠点に活動しているセラミックス(陶磁器)・アーティストのBrian Rochefortが、2021年スプリングコレクションにおいてコラボレーションを行うと発表されていましたね。
パリとロサンゼルスをデジタルで結んだロングディスタンス・コラボレーションによってCOVID-19のこの状況に適応するとのこと。コレクションはウェアとアクセサリーから成るようですが、生産が遅れているため、一部しかお披露目できていないようです。

「ここ(Berluti)で2年を経て、私はもう一人の人を招待する準備ができていて心地良く感じていました。これまで私は自分の個人的なスタイルとブランドのDNAのバランスを見つけ、リファインすることに集中してきました。そして、1月の最後のショーの後、すぐにブライアンに連絡し、次のランウェイショーをやることにしたところ、この惨事(COVID-19)が起きました。」

以前からクリスは自身のクリエイションを中核に据えることの重要性を説いており、AD Campaignやモデル等の話題性によってクリエイションが歪んでしまうことを忌避してきましたが、その漸進的な成長の次のステップとして、Brian Rochefortとのコラボレーションを選択したタイミングで運悪くパンデミックが起きてしまったようです。つまり、パンデミックによる不況のためにコラボレーションを企画したということではないということ。

「ブライアンの作品にはとても感心しています。私は伝統的なフランスの陶磁器(純粋で完璧で滑らかで伝統的。)から始めて、何年も陶磁器を集めてきました。でも、少しずつ、より現代的な形や、より自由なことをしているアーティストを知っていきました。そして、ブライアンは私が出会った中でも最も型破りな陶芸家です。彼は陶芸のバッドボーイです。」

火山の噴火の影響を受けたBrian Rochefortの原始的で不確実性を含んだ噴出物の泡の造形美。それらをシルクシャツや靴のパティーヌと組み合わせたコラボレーション・アイテム。

1月からは、より小さなコレクションを計画しており、3週間に一度の頻度のデリバリーでブランドの鮮度を高める予定であるとのこと。その一方で、シーズンを超えたBerluti Classicsのコアコレクションを開発しており、クラシックス・コレクションの上に鮮度感のあるコレクションが乗る2段階構成を考えているようです。

「デジタルで撮影されたファッションショーをやりたくありませんでした。つまり、私はファッションショーが大好きですが、ヒューマニティ、リアリティ、エモーション、ランウェイ・ステージ、音楽のためにそれらを愛しています。そして、あなたが男の子と女の子が着ている服を見ているという事実。その感情をビデオにトランスレートできるとは思いません。しかし、実際のファッションショーにおいてできないことは、物事がどこから来たのかというバックストーリー、情報を伝えるということです。(今回のコラボレーションを見た)人々は「それは素敵なプリントを使ったカラフルなコレクションでした。」と言います。だから、今回初めてその情報(コラボレーションの情報)を先に伝えて、結果を提示することができます。通常、私は制作中の作品を見せたくはないのですが。」

何の予備知識も無しに世の中に作品を提示することになるファッションショーは、受け手側の知識量にその解釈は依存します。あるアーティストとのコラボレーションやある意図を持った作品だったとしても、それに気づけない受け手は大勢いる訳であります。
今回は、アイデアや背景を先に明かした上で作品を提示するという普段とは逆になっているということですね。

「いつも私は、人々はキッチンで何が起こっているかを知る必要がないように感じています。でも、今回の会話の撮影は気持ちが良く、ブライアンの仕事振りと私の仕事振りはとても上手く接続しました。」

Chanel 20-21AW Haute Couture Collection

COVID-19の影響を受け、クルーズコレクションに続いて2回目のオンラインでの公開となったVirginie ViardによるChanel 2020-21年秋冬オートクチュールコレクション。
今回のコレクションにおいて、エキセントリック・ガールについて考えていたというヴィアール。インスピレーションソースとなったものは、70年代から80年代に掛けてニューヨークに存在したディスコ"Studio 54"の応答として、80年代のパリにあった"Le Palace"。コレクションのその心は、CocoよりもLagerfeldにある。

Mikael Janssonが撮影したRianne Van RompaeyとAdut Akechによる30のLook(クチュールのアトリエが3か月ほど閉鎖されていたため、このLook数となった。)。ショーではできないかもしれないこと、とヴィアールが話したのは、各Lookの中で存在感を放つパンクヘアーとファインジュエリー。

ツイード・ジャケットにティアード・スカートの階層性、フロア丈のベルベットドレス、大きな花の刺繍とクロスリボン・シューズ。フルスカートのレトロなカクテルドレスは白と黒の花が咲き、ラッカー・ピンクのレースがアイキャッチ(このLookをヴィアールは"ma poupee"(私の人形、の意。)と呼んだ。)。モノトーン・ツイードと真珠のランデヴー、ミッドナイトブルーの美しい色合いに、スパンコールとビジューの煌めき。

"casual and grand"とヴィアールが表現したように80年代のディスコ・カルチャーからインスパイアされたコレクションは、軽さを伴ったカジュアル・クチュールであるが、彼女の問題点は筆致が全体的にレトロであると言えるでしょう。自分の中にある何かを表現するというよりも過去や既存の何かによってコレクションは構成されており、モダニティが不足している場合が多く、これはAD Campaignを見ていても顕著に見られる傾向にある。
これは、Chanelというメゾンに代々伝わるツイードやパールといったレガリアをそのまま使うと現代的にすることが難しく、そこにはデザイナーの魔法が必要ということを意味する。

Bruno Pavlovskyとしては、シーズンサイクル及び、ランウェイショーをできるだけ早く戻したいと考えているとのこと。既存のシステムにおいて成功を収めているプレイヤーがゲームのルール変更を望まないというのはファッションに限らず、どの分野でも同じことが言えます。逆に言えば、変化を起こせるのは失うものが何もないような新興のプレイヤーであるということ。

ランウェイショー、Look Book、AD Campaign、ショートフィルム、エディトリアル、ソーシャルメディアといったように各分野において各表現形態があり、デザイナーが描いた世界観の拡張と語るべき物語があります。水面の波紋のようにその中心にはハイエナジーの伝統的なランウェイショーがあり、全ての物語の始まりの場所であるというBruno Pavlovskyの指摘は首肯できます。ただ、COVID-19の終わりはまだ現時点では見えておらず、プレゼンテーションの最適解の模索は続くでしょう。

最後に、Chanelはサプライチェーンの継続性を保障するため、ツイードに使用される糸の多くを製造しているメーカーVimar 1991を買収したとのこと。Paraffection傘下のアトリエと製造業者の合計はこれで36社となる。
グループ会社内で調達を掛けられるように強化するというのは、今回のパンデミックのようにサプライチェーンが止まった時のことを考えると重要ですね。ツイードはChanelのアイデンティティの中枢を形成するものですから。

via vogue.com wwd.com vogue.co.uk nytimes.com businessoffashion.com tFS

Christian Dior 20-21AW Haute Couture Collection

COVID-19の影響により、初のオンライン・プレゼンテーションとなったMaria Grazia ChiuriによるChristian Dior 2020-21年秋冬オートクチュールコレクション。インスピレーションソースとなったのは、Lee Miller、Dora Maar、そして、Jacqueline Lambaといった女性写真家や画家たち。コレクションのプレビューは、Zoomを用いて行われたようですね。

コレクションはモデルが着用するのではなく、トルソーに着せた作品をシュルレアリスムな背景に乗せて提示する。空気感としては博物館での展示品(アーカイヴ)のようであり、時間の概念から切り離されたような印象を受ける。それは俗っぽさの希釈とある種の権威を齎すが、ドレスとして生きているかと言われれば疑問符が付くでしょうか。

フィジカルなクチュールショーがキャンセルとなったことは、必然的にプレゼンテーションから生きたライヴ感の喪失を意味する。一般的にオンラインでのコミュニケーションは、如何にしてディレイ等を縮め、情報の双方向性をリアルに近づけることで臨場性を醸成し、それによって物理的な距離を埋め合わせようとする方向で進化中である。もちろん、2020年の今日時点においてもオンラインとオフラインでのコミュニケーションは、得られる情報量と体験は全く異なる状況にあり、定型的なコミュニケーション以外のシビアでセンシティヴ、または、クリエイティヴな類のものはオフラインに分がある状況である。

デフィレではないライヴ感を失ったプレゼンテーション。そこから更に人間性を捨象するシュルレアリスムなトーン&マナーでの作品提示はオブジェクトとしてのアート的側面の完成度を高める方向に働くが、時代を生きる女性を美しく彩るという側面をも捨象し、描かれる女性像も抽象的で匿名化される。

ステージ演出に照明やサウンドトラック。ウォーキングするモデルの速度や表情、メイクにヘアスタイル。ドレスの柔らかな流動性と靴やバッグにヘッドピースといったアクセサリー。フロントローを飾るセレブリティを含めた一回性の張り詰めた空気の中で提示されるクリエイティヴィティの結晶。フィジカル・プレゼンテーションとしてのランウェイショーという伝統ある儀式は多くの才能に支えられた高エネルギーの磁場であり、それをオンラインで代替することは現時点では不可能である。

Matteo Garroneによる"Le Mythe Dior"は、1945年にパリのデザイナーたちが第二次世界大戦の荒廃からの復興のために行ったミニチュア・ファッションツアーである"Theatre de la Mode"から着想を得たもの。二人のポーターがAvenue Montaigneのクチュールサロンを模したトランクを運んで採寸し、森に住む神話の妖精たちがドレスを着るというストーリーになっており、これはメゾンとクライアントが親密で非常に個人的な関係を維持する方法を描いたものである。

Maria Grazia Chiuriによると「クチュールの魔法の夢」に関する物語を望んでいたと話しており(シュルレアリスムもこの夢のメタファー。)、COVID-19からの復興の願いが込められている。無論、登場するミニチュアドレスはアトリエの職人たちによるものであり、キウリは「人形や可愛らしいもの、子供っぽいものにしたくありませんでした。これは本物のコレクションです。」と語っている。

コレクションの服を単体で見ればそこまでシュルレアリスムに傾斜したものではなく、いつも通りのMaria Grazia Chiuriと言ったところ。
ギリシアのキトン、プリーツ・バージャケット、ブラック・フリンジドレス、Jacqueline Lambaのタロットが描かれたホワイト・カシミアコート、スパンコール・ドレスなど。

オンライン化したことでフェミニズム・イデオロギーとディスタンスが生まれ、フェミニズム色が希釈されることで全体のバランスが取れていたのは思わぬポジティヴ要因であったと言えるでしょうか。

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The Story of Haute Couture and Fashion Week

ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、そして、パリ。
これらの都市で開催されるファッションウィークを"Big Four"と呼ぶ。

1825年に英国のリンカンシャーに生まれたイギリス人デザイナーのCharles Frederick Worth。彼は12歳の頃にロンドンのピカデリー・サーカスにあったデパートのSwan & Edgarで見習いとしてテキスタイルに関する知識を学び始め、同時にナショナルギャラリーで多くの時間を過ごし、アートやデザインに触れる生活を送る。その後、シルクを扱う生地メーカーのLewis & Allenbyで仕事をし、1846年、21歳になった彼はパリへと渡る。

1847年、パリでは高級織物商のMaison Gagelinにセールスマンとして雇われる。当時、Gagelinはファブリック、ショール、刺繍、レースといったものを特権階級の顧客に販売していた。彼はそこでショールと外套を扱う部門の主要なセールスマンに昇進し、後に彼の妻となるMarie Augustine Vernetと出会う。そして、彼は顧客に商品を紹介するためにMarie Vernetをモデルとして起用し始める。

1850年、ワースはGagelinの宣伝のためにシンプルなドレスのデザインを始める。Marie Vernetをミューズとして愛を込めてデザインされたそのドレスは、当時の標準であったオーダーメイドの服からは際立ったクオリティを放つ。Marie Vernetがドレスを着用して歩くとクライアントはそのドレスの素晴らしさにすぐに気付き、注文を入れ、Gagelinの売り上げとワースのデザインの評判が上がることになった。
彼のデザインの注文が増えると、彼はGagelinの雇い主に交渉し、Marie Vernetをモデルとした小さなドレスメイキング・ショップの設立を認めさせる。テキスタイル販売とドレスメーカーが並列して経営され、また、男性がドレスメーカーのデザイナーを務めるのも初であった。

1851年、結婚式を挙げた後もワースは妻をミューズとしてインスピレーションを得て、ドレスのデザインを続ける。同時期にGagelinが売却され、同社はOpigez & Chazelleへと改名されるが、彼はそのままドレスのデザインを続け、1851年5月1日から10月15日までロンドンのハイドパークに建てられたクリスタル・パレス(水晶宮)で開催された第1回ロンドン万国博覧会に同社は参加し、ワースがデザインしたドレスを含めて展示を行う。結果、Opigez & Chazelleが上着のカテゴリで賞を受賞することに貢献し、ワース自身の名を売ることにもなる。その後、同社は1855年に開催された第3回パリ万国にもワースがデザインした作品を出品する。

1858年、自身の夢の成功のためには独立する必要があると考えていたワースはOpigez & Chazelleを去り、スウェーデンの実業家であるOtto Boberghと組んでパリの7 Rue de la Paixに"Worth & Bobergh"というクチュールハウスをオープンする。20人の裁縫師を雇い、彼の妻のMarieがメインモデルを務める。

Worth & Boberghの最初のオフィシャルなクライアントは、Valerie Feuilletという名の女性で、元々はOpigez & Chazelleのクライアントであった。彼女は、チュイルリー宮殿での舞踏会に着るためのドレスを用意していたもののそれを気に入っておらず、土壇場でWorth & Boberghに新しいドレスを依頼。ワースは舞踏会に間に合うようにドレスを作成し、そのドレスを見たValerie Feuilletはその素晴らしさに夢中になってしまうほどだった。

舞踏会の夜、Valerie Feuilletが着ていたそのドレスは、皇帝ナポレオン三世の皇后であったウジェニーの目に留まる。
皇后がワースについて耳にしたのはこれが初めてではなく、1852年後半、Opigez & Chazelleは彼女の婚姻の嫁入道具となるものを提供していたため、彼女はワースの作品を知っていた。それにもかかわらず、彼女はValerie Feuilletの素晴らしいドレスが男性によってデザインされていることを信じることができず、彼女はワースを召し抱えることをしないのであった。

それでも彼の人気は高まり続け、彼はハイクオリティなドレスのみならず、裕福ではない顧客も自分の体型に合わせたサイズでオーダーできる季節性を取り入れたシーズン毎のコレクションのデザインを始める。モーニング、アフタヌーン、イヴニング、ナイト、ウェディング、そして、仮面舞踏会用のドレス、当時の有名な女優や歌手がステージで着る衣装など、彼はワードローブ全体をデザインする。

彼のデザインはルーヴル美術館とナショナルギャラリーで得た知識をベースとしており、そのデザイン性だけでなく、品質、完璧なフィット感で人気を博し、その結果、すぐに彼のデザインをコピーしようとする者が出始める。ワースはこれに対策をするため、自分の作品にブランドタグを付けることで一目で自分の作品であることが分かるようにする。

1859年、自身のブランドの成功にはファッションに対して絶大な影響力を持つパトロンを見つけることが必要不可欠であると考えていたワースは、皇后ウジェニーの友人でオーストリア大使の妻であったPauline de Metternichに近づくことを決意する。ワースが描いた最高のデザイン画を持った妻のMarieがオーストリア大使館に行き、パウリーネにそれを見せると彼女はその芸術性の高さに感銘を受け、すぐにドレスを各300フランで2着注文。次のチュイルリー宮殿での舞踏会でワースのドレスを着ることを約束した。

舞踏会の当日、皇后ウジェニーとパウリーネは次の会話を交わす。

「質問しても良いですか?マダム」と皇后が尋ね、「その素晴らしくエレガントでシンプルなドレスをつくったのは誰ですか?」と質問する。
「イギリス人男性です、マダム。ファッション界の大空に現れたスターです。」と侯爵夫人は答える。
「彼の名は?」
「ワース。」
「あぁ」と皇后は言い、「明日の朝10時に私に会いに来るように彼に頼んでください。」と侯爵夫人に依頼する。
「彼は叙させられました。そして、私は失いました。」と侯爵夫人が冗談めかして言う。「その瞬間から1着300フランのドレスはもう無くなってしまいました。」

こうしてワースは皇后ウジェニーの全てのワードローブを依頼されるロイヤル・クチュリエになる。

皇后の後援を受けたWorth & Boberghですが、それでも皇后は同社の多くのクライアントの一人に過ぎず、最終的に1200人の裁縫師を雇うまでにメゾンは拡大を続けることになる。その後、1870年に起きたプロイセン戦争の影響で事業が不安定になり、Otto Boberghとパートナーシップを解消。メゾンは"The House of Worth"となる。ナポレオン3世のフランス第二帝政が崩壊すると皇后ウジェニーがパトロンではいられなくなり、結果、フランスだけの顧客に留まらず、ヨーロッパ全土、1860年代半ばにはアメリカの市場まで活動の範囲を広げていた輸出に彼はビジネスの中心を転換する。

Charles Frederick Worthが「オートクチュールの父」とされる理由。
それは、ドレスを着た人形を郵送することで顧客とコミュニケーションを取っていた当時のデザイナーの在り方を変革し、ライヴモデル(生きた人間のモデル。つまり、彼の妻となったMarie Vernet。)に自身の作品を着せて顧客に披露したことに始まる。そして、デザイナーがビジネスパートナーと組んでブランドを立ち上げてビジネスを展開。セレブリティやトレンドセッターに自身の作品を着させて、それで評判を呼ぶという宣伝手法や自身が描いたイラストをブランドの広告として新聞等に出稿するといったことを行う。

それまでのデザイナーは顧客の注文に応じて服をつくる言わば職人のような立ち位置であったのに対し、彼は自身のインスピレーション(ルーヴルやナショナルギャラリーの美術品など。)に従って服をデザインし、ファッションのアート的な側面を前進させ、職人からアーティストへとファッションデザイナーの立ち位置を変化させる。顧客ができることは色と生地の選択のみに限定されており、あくまでもデザイナーが主導権を握り、自律性を保つ。これはファッションにマーケットインからプロダクトアウトへの転換とクリエイションの概念を持ち込むことを意味する。

デザインのコピーを防ぐためにブランドタグを発明し、マーケティングやブランドネーム、ブランドの所有という概念を創出し、自国だけではなく、当時の新しい流通技術を用いたビジネス範囲の拡大。春夏/秋冬といった現代では当たり前のシーズン制の採用。彼が妻を想いながらドレスをデザインしたことはミューズ・システムの原点と言え、その他の点についても彼が行ったことは、現代のファッションブランドやデザイナーが当たり前に行っていること全ての原型となっている。

1868年、ワースによって現代に繋がるフランス・クチュール組合"La Chambre Syndicale de la Confection et de la Couture pour Dames et Fillettes"が設立される。この組合の主な目的にもデザインのコピーを防止するということが含まれている。

ライヴモデルが作品を着用して実演し、プロモーションを行うワースの手法は、Paul Poiret等のデザイナーが自分たちの作品のプレゼンテーションの可能性で遊ぶことにつながる。
ワースのメゾンで初期のキャリアを積んだPaul Poiretは商取引と社交を組み合わせ、ナイトパーティーで作品を発表したり、1914年にはモデルを引き連れてトランクショーをヨーロッパ各地で行う。同じ時期にロンドンではLady Duff-Gordon(後に彼女はタイタニック号沈没の生存者となる。)がプロのモデルの育成とキャットウォークスタイルのランウェイショーを実現。それは演劇場からインスパイアされた、舞台、カーテン、雰囲気のある照明、ストリングバンドの音楽、お土産、プログラムを完備した招待制のティータイム・プレゼンテーションであった。

1920年代から30年代にかけてのパリ。Coco Chanelの控えめな気楽さからイタリア出身のElsa Schiaparelliのシュールな実験、Madeleine Vionnetの流麗なドレープまで。ショーは大きなパーティーではなく、小規模で個人的なものとなり、顧客限定のイベントとして開催された。これはデザインのコピーを恐れてのことであり、現代のランウェイショーのように写真が当たり前のように撮られることはなく、写真家は厳しく禁止されていた。

その後、1939年に始まる第二次世界大戦の余波を各国が受け始める。

1943年、アメリカのファッション業界人がナチス占領下のパリに渡航して各メゾンのショーを見ることができなくなったため(そもそもショー自体がキャンセル。)、代わりに世界の注目をパリからアメリカにそらし、アメリカのデザイナーをアメリカのファッション業界人にプレゼンテーションするという意味も込めて(それまで米国ファッションはパリの影響下にあった。)、Eleanor Lambertによって世界で最初のファッションウィークとなる"Press Week"(後のニューヨークファッションウィーク)が開催される。

ランバートはニューヨークを訪れるためのジャーナリストの費用を支払うといったことまで申し出ており、結果、散発的に行われていたアメリカ人デザイナーのショーケースをつなぎ合わせることでそれらをパッケージングし、国内外から注目を集め、アメリカン・ファッションのイメージを変えるという意図は成功を収める。翌年の1944年にはRuth Finleyがファッションウィーク全てのイベントを1つの包括的なガイドにまとめた最初のファッションカレンダーを作成。このガイドは、バイヤー、メーカー、デザイナー、エディターを含むファッション業界と美容業界を1つの旅程にまとめるために不可欠なものであった。
尚、Eleanor Lambertは1948年にMet Galaを、1962年にCFDAを設立する人物である。

ニューヨークのファッションが影響力を強めていく中、パリは不安を感じ始めるが、1945年にオートクチュールに関する法律が制定。1947年にはChristian Diorがパリで初のコレクションを発表。その後、Hubert de GivenchyやPierre Balmain、Jacques Fathといった同時代のデザイナーたちと共に世界のファッション地図におけるパリの立ち位置を再確立していく。

1951年2月、アメリカの"Press Week"の成功を受け、イタリアン・ファッションに可能性を見出だしていたビジネスマンのGiovanni Battista GiorginiがフィレンツェのVilla TorrigianiにBergdorf Goodman等の主要なアメリカ人バイヤーやVogue USの編集長であったJessica Davesを招き、Sorelle FontanaやEmilio Pucciといったクチュリエやデザイナーの作品をまとめた最初のイタリアン・ハイファッションショーを開催し、成功を収める。尚、Giovanni Battista Giorginiは1960年代に日本市場に進出。伊勢丹とビジネスを行うことでイタリアン・ファッションの日本市場への販路を開拓した人物でもある。

1951年7月には2回目のファッションショーがフィレンツェのGrand Hotelで、1952年にはPalazzo PittiのSala Biancaでより大きなイベントとして開催される。その後、(クチュールで知られる)ローマやヴェネツィアといったイタリアの他の都市でもファッションショーは開催され、各都市が競い合う形となる。
1950年代から1960年代にかけては、Federico FelliniやMichelangelo Antonioniといった映画監督がその作品の中でイタリアン・ファッションの美学を描き、国内外に影響を与える。

1958年6月、イタリア北部の工業都市であったミラノでは"Camera Sindacale della Moda Italiana"(後の"Camera Nazionale della Moda Italiana")が誕生し、ファッションデザインの才能を促進・保護する使命を帯びる。
1961年にはVogue Italia(当初はVogueではなく、Novitaとして発行された。)の本部ができ、その後、1970年代から80年代にかけてはプレタポルテが台頭し始め、Giorgio ArmaniやGianni Versaceといったミラノを拠点とするデザイナーが人気を獲得していく。他の都市では国内外のファッション関係者の流入に対応しきれないという問題も浮上し、1975年にミラノで"Settimana della moda"(ミラノファッションウィーク)が開催され、イタリアのファッション業界における立ち位置を確立するに至る。

1960年代のパリでは、Diorで経験を積んだYves Saint Laurentがプレタポルテ・ラインである"Yves Saint Laurent Rive Gauche"を立ち上げる等し、若者文化にフォーカスを当てるという変化を齎す。この影響は、Pierre CardinやAndre Courregesの"Space Age"コレクション等へと伝播されていく。

1973年10月、アメリカでのファッションウィークの成功とその後の発展、ミラノでのファッションウィークの胎動を感じたパリでは、"La Chambre syndicale du pret-a-porter des couturiers et des createurs de mode"(現在の"Federation de la Haute Couture et de la Mode"。)が設立。
同年11月28日には、ヴェルサイユ宮殿の修復の資金を集めるために歴史的なファッションショーである"The Battle of Versailles Fashion Show"(2016年に"Battle at Versailles"としてドキュメンタリーが作成されている。)が開催される。

この伝説的なファッションショーは、Eleanor Lambertとヴェルサイユ宮殿のキュレーターであるGerald Van der Kempによるもので、フランスの巨匠デザイナーとアメリカの新興デザイナーを競わせるという企画のファッションショーである。フランスからはYves Saint Laurent、Emanuel Ungaro、Christian Dior by Marc Bohan、Pierre Cardin、Hubert de Givenchyが、アメリカからはAnne Klein、Halston、Oscar de la Renta、Bill Blass、Stephen Burrowsが参戦。ショーのゲストには、Princess GraceやMarie-Helene de Rothschild、Andy Warhol、ショーでパフォーマンスを行ったLiza Minnelliといったセレブリティが集まる。

ショーの結果は、アメリカのデザイナーがそれまでは華やかなクチュールを好むフランス人から下に見られていたプレタポルテのデザインに新たな正統性を与え、また、デ・ラ・レンタが「私たちのショーが異なっていたのは、パリでは誰もランウェイで黒人モデルを見たことがなかったということです。」と2011年にNYTimesに語ったようにアフリカ系アメリカ人を中心とした黒人モデルをキャストしたことで聴衆を沸かせることになった。

こうして1973年より"Semaine de la Mode"(パリファッションウィーク)は開始される。

"BIG Four"において最年少であるロンドンファッションウィーク。

1947年、オーストラリア出身でシドニーやロンドンでバレエやアートを学んだPercy Savageはパリに渡る。Cristobal BalenciagaやLanvin、後に親友となるChristian Diorのシルクスカーフをデザインすることからそのキャリアを開始。その後、ファッションPRとしての活動を始める。

1950年代に彼がLanvinの最初の広報責任者になるまで、La Chambre Syndicale de la Haute Coutureはマスコミでのファッション広告に嫌悪感を抱いており、コレクションの発表から1ヶ月間は詳細を報道機関に公開してはならないという規則があった。しかし、1954年に彼はElizabeth TaylorがLanvinのドレスを着てパリの映画祭に出席するように交渉し、翌朝、ドレスの写真が全てのメディアの表紙を飾るように仕向ける。
デザイナー・ドレスを着たセレブリティがレッドカーペットを歩くという現代では当たり前のPR活動を彼は開拓。これにより前述の規則は撤廃されることになる。その後も彼はJackie KennedyやFarah Dibahらにドレスを着せる。

同年、International Woolmark Prizeにおいて彼は若きYves Saint Laurentに出会い、Vogue ParisのMichel de Brunhoffと共にDiorに紹介。1950年代半ばには、Diorが男性用の新しい香水の名前を考えるために自宅でのブレストに彼を呼び出す。遅刻をして到着した彼は、Diorの執事に案内されて紹介されたとき、誰かがテーブルを叩いて"Oh Savage, always late!"と言った。それを聞いたDiorは手を叩いて"That's it! Eau Sauvage!"と叫び、メンズフレグランス"Eau Sauvage"が誕生する。広告にはAlain Delonが起用される。

1960年代、Lanvinの後に彼はNina Ricciに勤務するが、1968年の五月革命の影響で彼の契約が更新されなかったことによってロンドンへと拠点を移す。60年代後半にはClare Rendleshamと共にロンドンにYves Saint Laurentのブティックを設立。Ernestine CarterやBeatrix Millerといったジャーナリストやエディターの要望もあり、イギリスのファッションの知名度を高めることに着手し、それは1974年にロンドンのRitzで初のグループデザイナー・ファッションショー"The New Wave"として結実する。

その後の1983年、国内外でイギリスのファッションを強化することを目的とした"British Fashion Council"が設立。ロンドンファッションウィークは1984年から開始されることになる。

オートクチュールとファッションウィーク誕生の物語。
その成立過程において、現在のファッションデザイナーやファッションハウスの原型ができ、ファッションウィークについてもデザイナー同士がお互いに影響を与え合うように各都市が影響を与え合いながら成立していったということが分かる。特にアメリカのEleanor Lambertの活動はニューヨークは元より、パリにも多大な影響を与えており、ファッションの世界では常に追われる側であったパリは、挑戦者であったニューヨークや他の都市の発展を脅威と感じ、クチュールからプレタポルテへの転換といったように時代に乗り遅れないように変化を余儀なくされたという捉え方の方が実体に近いと言えるでしょう。

現代に当たり前に存在しているものの裏側には多くの先人たちの努力と物語があり、そのバトンは世代から世代へと遺伝子のように受け継がれていき、我々はその連続性のある時点のある断面を目撃しているに過ぎない。

ファッションウィークやランウェイショー、そして、ファッション自体の存在が問われつつある状況下において、その起源を辿る旅へ。

Kris Van Assche Interview - Work from Home, POST-COVID-19 Fashion Industry and more.

HIGHSNOBIETYでのKris Van Asscheのインタヴュー記事。
COVID-19の流行下において彼もワークフロムホームを行っており、Berlutiのデザインチームとはリモートで業務を行っているようですね。

クリスはこれまで自身のブランドとDior Homme、そして、Berlutiといったように常に1つ以上のオフィスを持っていたため、自宅にオフィスを持ったことは無かったとのこと。しかし、今はこれまでとは別の状況にあり、プリンタや基本的なものを購入し、最初の一週間はちょっとしたドラマだったと述懐しつつ、ワークフロムホームができるように自宅に環境を整えたようです。

彼にとって自宅とは、パソコンや机の前に座って仕事をするというよりも、考え事をしたり、調べものをしたりできる場所であるとのこと。自宅には大きなライブラリー(おそらくデザインやファッション、アート関連の資料ですね。)がありますが、平日はあまりそれらを見る時間はないようで、自宅はオフィスというよりも個人的な内省の場であると話しています。そして、時々、休憩を取ることを義務付けるのも非常に重要であると言い、週末は週末として、夕方は夕方として過ごしたいと述べていますね。

ロックダウンの影響で多くの人々がインテリアやホーム用品に注意を向けている状況において、タイミング良く最近、ロンチされたBerlutiのホームウェアラインは奇妙な偶然を感じるとのこと。Pierre Jeanneretの作品を彼は数年前から収集しており、Pierre Jeanneretがインドのチャンディーガルのためにデザインした1950年代の非常に鮮やかな色を使った作品が彼のプレタポルテの可能性を広げたと言い、色に夢中になっている理由はそこにあると説明しています。

既に存在するものを再考するというアイデアは多くのデザイナーがメンズウェア・デザインにおいて行っていることであり、クリスが自身のシグネチャ・ブランドをしていた時、彼は白シャツのデザインに挑むことを(白シャツはクラシックだったので)恐れていなかったと話しています。しかしながら、クリスはいつも「僕らは男性に新しい白シャツを買うよう説得しようとしている。」と言っていたと回想し、本当に良い白シャツを提案することを試みていたと話しています。

オーセンティックなデザインに基礎を置く彼のクリエイションスタイルですが、だからと言って彼がエクストラバガンザやアヴァンギャルド、あるいは他の様々な異なるクリエイションスタイルを評価することができない(それらに興味が無い)ということを意味しないと話しつつも、「でも、これが僕という人間なんだ。」と自身のクリエイションを語っています。

今後(ポストコロナ)、ファッションがどこに向かうかについては、もはやファッションは1つの次元だけを持つのではないと話しています。

「世界がロックダウンによって活動を停止した結果、地球環境が如何に改善されたかを耳にしたことがあるでしょう。それに一部の人々は興奮し、これから人々は消費を抑え、より良い消費をし、より環境に注意を払うようになるだろうと考えています。私はそれが事実であって欲しいと願っていますが、今回の出来事がそんな大きな変化をもたらすかどうかは分かりません。」

「私が思うのは、異なるブランド間の違いを強調するだけかもしれないということです。いくつかのブランドは失われた時間を埋め合わせるために、できるだけ多くの製品を持って、できるだけ早くワゴンに飛び乗って何でも売ろうとするでしょう。しかし、いくつかのブランドは、品質を重視し、長く使用でき、地球環境に配慮し、プロダクトを生産する人々に敬意を払うという事実によりフォーカスを当てると思います。」

彼の考えは冷静で現実的であります。COVID-19によって消費行動が変わるかどうかは未知数ですが、多くの人々が自分たちの欲望を制御し、短期的な自分の利益よりも中長期的で利他的な自分たちの次の世代のことまで考えた上で消費をすることは、これまでがそうであったように現実には難しいと言えるでしょうか。COVID-19の終息具合にもよりますが、喉元過ぎれば熱さを忘れるになる可能性もあるでしょうね。

しかしながら、サステナビリティやインクルージョン、エシカルといった国連のSDGsに沿った大局的な時代の流れは確実に存在します。身近なところで言えば、日本においても2020年7月1日からレジ袋有料化が始まるように時代の流れは我々の生活に半ば強制的に変化を求めるというのも事実であります。

そして、クリスの言うように、時代の変化に対応できるブランドとそうでないブランドの2極化という話は、今回のCOVID-19が時計の針を進める役割を果たしていると言えるでしょうね。

少し前にVanessa Friedmanが書いていたように、2018年に閉鎖されたBruno PietersによるHonestby.comは、価格の透明性をコンセプトにしたプロジェクトでした。その他の企業においても価格の透明性に関する試みはこれまで行われてきましたが、それがビジネスとして離陸することはありませんでした。
しかし、フェアトレードや環境への配慮といったものは、それだけでは十分ではないにせよ、前述の時代の流れを考慮すればこれからの時代に必ずセットで必要になる要素と言えるでしょう。

COVID-19をポジティヴに捉えるならば、COVID-19は我々が抱える問題を浮き彫りにし、少し立ち止まって考える時間を与えてくれました。ファッション業界ではランウェイショーの在り方、春夏/秋冬シーズンとセール時期の見直しなどを含めていろいろと議論が出ていますね。それらがどうなっていくのか、そして、そういった変化がクリエイションにどういった影響を及ぼすのかが個人的に気になるところであります。