This is Not here - *//LIKE TEARS IN RAIN

Dior homme 2017-18 Winter Collection

これまでデフィレを行っていたTennis Club de ParisからGrand PalaisのSalon d'Honneurに場所を移して行われた、Kris Van AsscheによるDior homme 2017-18年ウィンターコレクション。
今回のコレクションは、ニューウェーブから始まり、Gabba、レイヴパーティーにキャンディーレイバーといったミュージック・シーンのユース・カルチャーにリファレンスを付けたもの。Frederic Sanchezによるサウンドトラックは、Depeche Modeの"Behind The Wheel"のリミックス。

「(若者の間で)テーラリングは終わっており、皆がジーンズやスウェットシャツ、スポーツウェアを着ているように、若者はもうテーラリングを着たくないと非常に言われています。我々はDior(テーラリングがブランドのコアにあり、その技巧を知っている。)において、若者にアピールするようにスーツを再発明すべきだと感じています。」とヴァンアッシュは語り、「それはスーツが(本質的に)終わっているということではありません。我々が正しいスーツを若者に与えることができなかったということでしょう。それ故、(今回のコレクションの)全てのスターティングポイントは、彼らにルーズでクールなものを与え、トップに本当にシックなものを配することにありました。そのミックスが、私は若い世代のために機能することができると思います。」とコレクションを説明する。

フィットしたスマートなジャケットに、緩めのパンツやアンクル丈のクロップドパンツを組み合わせ、足元はカジュアルなホワイトソックスにスニーカーやブーツが飾る。カラーパレットは、ブラックやレッドに始まり、ターコイズやオレンジを徐々に侵入させていく。
ステープラーやハ刺しによって装飾されたジャケットやコート。"THEY SHOULD JUST LET US RAVE"と記されたムッシュ ディオール・ハイネックニット。シャーリング・ノースリーブコートにポニースキン・トレンチコート。オーバーサイズ・ミラーサングラスやセーフティーピン、"HarDior"(Hardcore Dior)とプリントされたバケットハットに缶バッジ、フェスから引用されたKandiビーズのネックレス。そして、ユニークでお茶目なテディベア・モチーフのベルトループ・チェーン。ショーの終盤では、インヴィテーションにも使われたシカゴ出身のアーティストであるDan Witzの"Mosh Pits"がフィーチャーされる。

2016-17年ウィンターから2017年サマーに掛けての延長線上的なコレクションではありましたが、パリピ的な要素を用いてコレクションに変化をつけ、攪拌させていた印象ですね。クラシカルなメゾンの伝統にある種のキッチュさを注入し、モダナイズすることで若い世代にクールなテーラリングを訴求するといった感じでしょうか。

Dior hommeのアーティスティック・ディレクターを務めて今年で10年を迎えるKris Van Assche。MFF Magazineでのインタヴューにおいて、この10年間はいろいろなことがあったが、あまり多くを振り返るのは好きではなく、古いコレクションもあまり見ないと話す。自分がより良くできること、次に何が来るのかを彼は考えているとのこと。
Dior hommeでの10年はインクレディブルな旅であったが、ここ1年半の間はブランドの野心と発展を加速させているように感じており、直近の3シーズンの自身のクリエイティヴ・ディレクションもそうだと言う。時に、それは新しい会社のように感じる、と話す。それは2015年にヴァンアッシュが自身のブランドを休止し、Dior hommeに集中するようになったことと、同年、Serge BrunschwigがDior hommeのプレジデントに就き、ブランドがより進化し、拡大を始めたという幸運の偶然一致にあるのだと彼は説明する。彼が話すように、シグネチャーの休止から現在までのDior hommeでのクリエイションはそれまでのものよりも濃密で、ブランドとして全体的に良い方向に進んで行っていることは間違いないでしょう。

インタヴューの最後に「3ワードで現在のブランドを説明するなら?」と問われた彼は、"Christian Dior homme"と答えている。それは、Monsieur Christian DiorとDior hommeの結合にあるのだ、と。

via dior.com vogue.com wwd.com dazeddigital.com businessoffashion.com tFS

Semantic Fashion

直截的な表現を避ける、というのはクリエイションにおける基本の一つと言えるだろうか。創作行為において直截的な表現は稚拙であるとして迂回され、抽象から具体が表現されるのが一般的である。迂回された表現が結実すれば、直截的な表現よりも本質への接近が実現され、受け手側に余韻と想像性の余地を残す。

多くの表現の中で使われるタイポグラフィ。それは直截的に意味と繋がるが故に扱いがとても難しいものである。メッセージ性という観点からタイポグラフィは一見すると表現の強度がありそうに見えるが、意味と短絡した記号であるそれらは上辺だけの虚像となることが多く、脆弱にしか機能しない場合が多い。前景化しやすいタイポグラフィは抽象化し、グラフィックとして背景化した方が結果的に強度は保持し易い。もちろん、そこにはタイポグラフィの記号としてのフォルムの美しさ(表現の強度に還元される。)は必要となるが。

タイポグラフィの一種であるブランドロゴにも同じことが言え、ロゴが前面に押し出されたアイテムは一般的に誰でも思い付く稚拙な表現として退けられるべきものである。ロゴはブランド全体を要約したある種のメタデータであるが、基本的にブランドの権威性と短絡している。そして、ブランドの初期状態において、その権威性はロゴのみでは発揮し得ない。デザイナーがデザインした美しい創作物がロゴに権威性を付与し、そうすることで初めてロゴは権威性を獲得する。その結果、そのロゴを付した各アイテムは自身のデザイン性のみならず、ロゴからも権威性を拝受することになる。
敷衍すれば、デザイナーがデザインしているものは、ロゴを連想させる美しいデザインであるとも言える。ロゴが見える位置に配されていなくともオーディエンスがその美しさやデザイン的特長からブランドロゴを無意識に、遡及的にイメージするということ。スマートなこの理想状態は、下部構造である美しいプロダクトと上部構造であるブランドロゴが相互依存しており、ロゴはある意味で環境化(直接的な存在は隠蔽されているが、機能のみが存在する状態。)された状態にある。

ポピュラー・ミュージックが直截的な表現を迂回しようとすれば、必然的に歌詞は迂遠な表現となり、更には母国語よりも記号性の強い外国語となり、最終的に歌詞は消滅し、サウンドトラックのみでの表現となる。その段階まで病が進行すれば、もはやそれはポピュラー・ミュージックのカテゴリーを逸脱している。
洗練は最小化(ミニマル)を進行させ、先鋭的な意味性の排除とハイコンテクスト化という症状を引き起こすが、それは多くの創作の世界に共通している。罹患者である創り手は既存のコードを用いず、真理や本質を独自のコードでエクスプリシットに描こうと試みる。

ある時代において、Martin Margielaは脱構築により意味の漂白を行っており、意味性の排除とコンテクストの組み換えを独自のコードとして行っていた。各アイテムは既存の文脈から切り離され、新しい文脈で新しい意味を獲得するか、または、そのまま空白が与えられる。マルジェラの場合、元の文脈の意味性はほぼ失われており、最終的に記号性がかなり高い状態に各アイテムは置かれる。
翻って、Demna GvasaliaがBalenciagaやVetementsで行っていることはマルジェラに比較すると漂白のレベルが低く、元の文脈の意味性(匂い)が残存しており、新しい意味があまり与えられていないという違いがある。それが洗練性の低さ、ちぐはぐ感に繋がっており、彼の作品をそのままストレートに受け取るとすれば、評価は「露悪的なアイロニー」となる。

デムナの意味性の残存について分かり易いのは、多くのブランドとのコラボレーションを行ったVetementsの2017年春夏コレクションと言えるだろうか。このコレクションを例えれば、マーベル・スタジオによる有名コミックのヒーローたちを集めた映画「アベンジャーズ」のようなものである。それぞれのヒーロー(ブランド)はそれぞれの物語を個別に有するが、それらを一堂に集めた子供が一度は夢見るような映画(コレクション)という作品世界の構造のようになっている。つまり、彼の作品に意味性の残存が発生する理由は、その2次創作性にある。

デムナの作品は全体的にカリカチュアライズされた2次創作物のようであり、他のデザイナーのように自立した世界観を持つ創作物であろうという意識はそこにはほとんど存在しない。ただし、2次創作的であるということは必ずしも悪いことではなく、創作物のデータベース化が進行した現代において、彼のような制作手法は特段、目新しいものではない。
2次創作的であるということをパラフレーズすれば、ある種のアマチュアイズムがそこにあるということを意味し、彼があくまでもストリートに軸足を置いていることは必然であると言える。

既存の文脈での意味性が残存した同人誌的なアイテム、子供が大人の服を着るかのようにデフォルメされたオーバーサイズなアイテムや不安定なスタイリング、といった戯画的な要素は結果的にストリートの幼児性を作品の中に引き入れる。その幼児性が彼の作品全体を規定している、と言えるだろうか。