This is Not here - *//LIKE TEARS IN RAIN

Re: SEL24105G - FE 24-105mm F4 G OSS

SEL24105Gがリコールの修理から帰ってきてからいろいろ使っていますが、かなり便利でこれ一本あればほとんどのシーンで間に合ってしまう感じですね。修理をしてから意図せずピントを外すということもなくなりましたし。ちなみに、修理には輸送期間を含めて一週間も掛かりませんでした。SONYの工場での作業は1営業程度です。

過去にも書きましたが、SEL24105Gには望遠側がもう少し欲しくてSEL2470Zから置き換えたのですが、結果にはかなり満足しています。というか、期待以上の結果が得られている感じですね。

解像感もボケも申し分なく、寄ってマクロのように使うこともできて、便利すぎるので出先でレンズ交換をすることがかなり減りました。一応、単焦点(SEL55F18Z)や広角レンズ(SEL1635GM)も持ち歩いているのですが、使わずに帰ってくることが多いです。流石にキレ味が欲しいときは単焦点を使いますが、標準ズームでここまで撮れれば自分には十分過ぎる感があります。ボディのα9もそうですが、機材に自分の技術やセンスが追い付いてないという…。

尚、SEL2470GMは使ったことが無いのですが、望遠側が自分には短いのでたぶん手にすることは無いかなと。現状、夜間撮影などの暗所で手持ち撮影時にシャッタースピードが欲しいときは、SEL1635GMで間に合っていますので。SEL1635GMも良いレンズで、開放からの解像感もそうですが、寄ったときのボケも個人的には好きですね。

明日、α7IIIが発売となりますが、それに伴ってSEL24105Gも品薄となっているようです。SEL24105Gは昨年11月のα7RIIIとの同時発売からほぼずっと品薄状態が続いていることになりますが、光学機器はそんな簡単に量産が効かないのでしょうね。無理するとまたリコールを起こしそうですし。

結論として、(撮りたいものにもよりますが)SEL24105Gを標準ズームとして選択するのは現時点では最良かなと。ある程度使ってみての個人的な感想としてはそうなりますね。

SPRING

いつも傍にあった何かが失われる時に感じる、何とも言えない胸のざわめき。
何度経験しても慣れることの無い、この感覚。

始まりがあれば終わりがあり、あらゆるものはいつまでも続かないと知っている。
それでもそれを見ないように、いつまでも先延ばしにして、今がいつまでも続くように、手を伸ばせばいつでも触れられるように、それから顔を背けて、信じないようにして、生きていることは多くある。
流転する日々は待ってくれず、必ずその時はやってくるのに。

美しさとは、その非永続性を常に孕んでおり、逆説的にそれによって支えられている。
ある時代に呼応したクリエイション。少女が成長して女性になる一時や、少年が青年へと成長する際の一瞬の煌めき。
もうすぐ東京で満開を迎える桜や、誰かと過ごした何気ない平穏な日常でさえも。
全ては非回帰的に不可逆として進行しており、儚く、美しい。

毎年、春というこの季節は、何かと人をナイーヴにさせる。
きっとこの先も、この胸のざわめきに慣れることは無いだろう。

via AFTER 11 YEARS...

Samba saravah sakura

画像はこちらの映像作品から。
パパ・ママが我が子の写真や映像を撮るという文化がありますが、この作品もそのカテゴリに属するものです。ただし、クオリティがとても素晴らしく、季節も春ということで今の時期に合っており、見ていてとても心地の良い映像作品になっています。こういった映像はコンテキストを共有している家族や親戚、知人といった範囲内でのみ楽しめるものになりがちですが、一つの映像作品として成立しており、多くの人が楽しめるものになっていますね。音楽も映像によく合っていて良い雰囲気を出しています。

同じ作者の方で他に良いと思った作品は、こちらの映像のラスト1分間の作品や、こちらのハワイの作品。いずれも音楽と映像のシンクロ率が高くて好きですね。

YouTubeでいろいろと個人制作の作品を見たりしますが、(アクション)カメラやジンバルの進化(あとはドローン等もそうでしょうか。)、それに加え、PremiereやDaVinci Resolveといったソフトウェアの進化が映像作品全体のレベルの底上げをしているというのは感じます。先日、パシフィコ横浜で行われたCP+でいろいろ見て思ったことでもありますが。
ただ、作品群の平均値が上がったとしても胸をザワつかせる作品というのは一握りだということですね。技術の進化によって映像が手軽に撮れ、綺麗になっていくことや、カラグレが簡単になっていくといったこととは異なるところに何かがあるということなのでしょう。

"Lost + Found", "Good News" - David LaChapelle

David LaChapelleの作品集、"Lost + Found", "Good News"
今回の2冊の本は、1996年の"LaChapelle Land"とその続編となる1999年の"Hotel LaChapelle"。そして、2006年の"Heaven to Hell"に続く彼のアンソロジーとなる最後の作品集とのこと。内容は80年代の作品から2017年のものまで、多くの作品が収録されています。

劇的でケバケバしく、グロテスクに美しく、性的表現をポップでユーモラスに昇華し、宗教画的な崇高さと大衆文化のキッチュなシュルレアリスムが同居した超常的な作品群。情報量が過剰で、感情の爆発が優越しており、多量のエネルギーが作品内に内在しています。ポップスターのキャラクター性をカリカチュアライズして捉えた作品も彼のトレードマークですね。
時代性ももちろんありますが、表現がデジタルではなく、アナログに軸足があるというのも彼のクリエイションの生々しさにはよくあっています。

17、8才の時にAndy Warholに見いだされ(当時、彼の友人にはKeith HaringやJean-Michel Basquiatがいた。)、Interview Magazineからスタートして華々しいキャリアを築いてきた彼ですが、2006年に一度燃え尽きてハワイのマウイ島の農場で暮らすということを経験しています。彼によると、「私は美しさやファッション、ビューティーが好きです。これらはいつも文明と共にありましたが、そのプロパガンダから逃げなければなりませんでした。私がすべてを辞める時、これ以上もう誰もポップスターを撮りたくなかったです。私はそれらに苦しんでいました。」とのこと。

彼は双極性障害を持っており、躁病と不眠症からワーカホリックになり易かったと過去のインタヴューで話しています。不眠で躁状態で創られた作品と聞くと彼の作品は納得してしまう感じがありますね。基本的にハイテンションな作品が多いですので。
これで個人的に思い出したのは、Dior時代のJohn Gallianoのことですね。彼も高エネルギーの作品を創っていましたが、2011年のあの事件で強制的にある意味で燃え尽きるという結果になってしまったので。普通の精神状態で描くのが難しいような作品を創っている創り手は、ワーカホリック気味になり、どこかでバーストしてしまう傾向が強いと言えるでしょうか。

更に、インタヴュー内では芸術的欲求を商業的現実と調和させるのが難しくなっているという話をしています。内容としては、2005年6月にVogue Italiaのために撮った写真が2か月後の8月にアメリカ南東部を襲った大型ハリケーン・カトリーナとリンクしてしまったということで、編集者からいろいろ言われたというエピソード。彼は環境と地球温暖化について考えてそれを撮ったとのことですが、まさか2か月後に大型ハリケーンが襲来して作品と同じような現実が現れるとは思ってもいなかったでしょうね。
芸術的欲求と商業的現実のバランスという観点で言えば、ここ数年はポリコレの問題があるでしょうか。表現の自由と道徳や倫理の摩擦は昔から議論される問題であって、これはいつまでもついて回るものですね。

今回の2冊の作品集を見ながら思ったことは、現代においてこういった作品は中々成立し得ないということ。創り手のエネルギー、テクニック、センス、そして、被写体となるモデルや時代を映すポップスター、それらを上手く編み上げて読者に届けるメディア。最後にそれらを支える多くの予算、といったピースが組み合わさって成立していますので。
写真表現の可能性が本気で信じられ、それらが追及された時代、というのも彼の作品集から感じることができるかもしれませんね。

Dior Images: Paolo Roversi

Paolo Roversiが現在までに撮ったDiorの作品を集めた作品集、"Dior Images: Paolo Roversi"
大半の作品がVogueやW Magazine等で過去に発表されたものですが、一部、既出ではない作品も収録されていますね。
創業者であるChristian DiorからYves Saint Laurent, Marc Bohan, Gianfranco Ferre, John Galliano, Raf Simons, Maria Grazia Chiuriと過去から現在までのアーティスティック・ディレクターの作品が使われています。ほとんどはクチュールコレクションですね。

Paolo Roversiによると、「写真とは、五感すべてに関するもの。」とのこと。彼は「写真は単なるヴィジュアルではなく、香り、触覚、味覚、そして、音でもあります。あなたが写真を見る時、音楽が聴こえたり、風を感じたりするかもしれません。それはイマジネーションへ通じる窓です。」と語り、「写真が鮮明でない時、より多くのことを感じるのがその理由です。」と説明する。そして、「私の作品には、理性や論理的なものはありません。それは本能と感情に関するものです。」と自身の作品について話しています。

彼の絵画のような抽象的な写真は、ブレやボケを何かの幻影やペインティングの滲みのように使っているのが印象的で好きですね。決して派手でも分かり易くもありませんが、抑制された形而上的なミステリアス・ファンタジーの中に静かに宿る美しさには惹かれるものがあります。