This is Not here - *//LIKE TEARS IN RAIN

The Structure of a Fashion Consumer Society

Saint Laurentで200足限定のローラースケートが販売、というニュースが少し前に報じられていましたが、最初に思ったのはChanelのフラフープ・バッグやJil Sanderのペーパー・バッグのようなことがしたかったのかな?ということでした。奇を衒ったアイテムというのはランウェイショーでは登場しやすいと思うのですが、コレクション外のアイテムとして登場するのは少し珍しいかなと思います。

Chanelのフラフープ・バッグやJil Sanderのペーパー・バッグは、シリアスなランウェイショーの中にさり気無く配置されることによってそのコントラストとランウェイショーのストーリー性を帯びることでハロー効果を生み出し、アイテムとしてのアイデンティティを獲得することに成功していますが、Saint Laurentのローラースケートはコレクション外のアイテムなのでアイテムとしての文脈が希薄なために物語性や単一性を獲得することができていないかなと思います。また、つくり手のジャスト・アイデアによる軽いノリで製品化された単なる内輪ウケのアイテムのような気がしなくも無いのが少し痛いかなと・・。

ランウェイショーという儀式は、各アイテムに洗礼を行い、作品として新しい生命を与えることを意図した人工的なシステムであって、それはある民族における祭りや成人の儀式と同義だと言えるでしょうか。デフィレという深淵において神託される物語性を、リニアに進行し、プルバック不能な時間という概念が作品の最新性という側面から単一性を補強する。
ブティックにおいてコレクションアイテムとそれ以外のアイテムには明確にヒエラルキーが存在し、デフィレに登場したアイテムを頂点とした階層構造を成す。そしてそのヒエラルキーは基本的にそのまま着用者のヒエラルキーへとスライドされ、コレクションアイテムを購入し、着こなす者が当該ブランドの顧客であり、カスタマー・ヒエラルキーの上位にテンポラリーに配置される。

コレクションアイテムとそれ以外のアイテムにはストーリー性以外の物理的な純然たる違いは存在しないにも関わらず、カスタマーのメンタリティには購買を動機付ける明確な違いが存在しているのが面白いところですね。もちろんそれは、その時に購入しなければ再製品化される可能性がかなり低いという希少性も理由に挙げられるでしょう。ただ、いずれにせよパリやミラノといったコレクション/ブランドへの憧れや創り手へのリスペクトといったものが予め消費者側にインストールされていなければ機能しないものであることには注意が必要でしょうか。デフィレに登場したアイテムを買い求めることと、芸能人やセレブリティが着用したものを買い求めることは構造的に言えば同一であるということは今更指摘されるまでもないことですね。

ブティックにおいて新作のコレクションアイテムが最重要視されることは、モードの世界が「新しさ」を最重要項目として取り扱っていることに起因し、その「新しさ」はファッションを前進させるという(抽象的な)目的のためにこの世界に住む人々によってアファーマティブに定義された信条であり、その信条はビジネスを前進させるという目的を持ったビジネスマンとも共犯関係的にシェアされている。

安心・安全が予め保障されたコンビニエントな定番品やベーシックなアイテムに堕することなく、クリエイションを積極的に評価し、リスクを負って世界の法則を変えようと試みる創り手とその作品を尊重するということ。人に例えるなら、いつまでも好奇心旺盛で青春期を良い意味で忘れないということであり、世界の矛盾や不条理に挫けることなくその全てを受け入れて前進しようとする強さであり、初恋のトキメキや胸騒ぎを忘れないということ。ランウェイに登場するモデルの中心が10代から20代に掛けての年齢層であるということも、ある意味でこの事由に起因すると言えるでしょう。

ビジネスモデルを単純化すれば、「服を売る」というシンプルな物販ビジネスなのですが、そこに至らせるまでの仕掛けが大規模化・複雑化しているのが高度消費社会の特徴ですね。如何にして虚構の神話と共同幻想を醸成し、ファン(国民)を増やしてある種のネイションを構築できるかがキーになっている感じでしょうか。大半の顧客はブランドやアイテムの向こう側にあるイメージやシニフィエを消費している、というのは数十年前から変わっていない構造ですね。

posted by PFM